プロメテウスの政治経済コラム

プロメテウスは人間存在について深く洞察し、最高神ゼウスに逆らってまで人間に生きる知恵と技能を授けました。

教育再生会議 教師をますますサラリーマン化 「教師聖職論」いま何処に

2007-01-25 19:24:30 | 政治経済
いま子どもたちの犯罪やいじめなどのモラルの低下を前にして、これを建て直すには改めて子どもたちに道徳と躾を教え、公共心教育をするべきだという新保守派的言説が国民の間でも一定の支持を受けている。教育基本法改正を主張した右派勢力は、憲法と教育基本法による個人主義と行過ぎた自由主義が家族や共同体の解体や社会の退廃を生み出したと攻撃してきた。個人主義と行過ぎた自由主義は発達した資本主義社会そのものであり、学校や教師に資本主義的経営と人事管理を押し付けてきた結果である。むしろ憲法や教育基本法にしたがった教育のあり方を棚上げ、無視をして教育という数値目標管理に最も適さない分野に成果主義を持ち込んできたのが文科省であった。

成果主義にさらされているサラリーマンには容易に理解できることであるが、表面的な目標達成というところだけで、がんばり、成果をあげようという教師がいま教育現場に増えていることが十分予想される。教育というきわめて総合的で全般的な活動のうち、断片的な特定の表面的な数値目標のためにがんばり、それを評価されるという体制になれてくると、子どもたちを家庭や地域も含めてまるごとかかえ責任をもって教育していくという「献身的教師像」が、自分の精神衛生のためにも、馬鹿らしくなる。久富善之・一橋大学教授らのグループや国際基督教大学の藤田英典教授の研究でも教育が商品化、私事化していることと裏腹の関係で教師の関心が“私事化”している。外国の教師などと比較しても日本の教師たちが私的な生活と時間を重視するようになっているという(勝野正章「学校や教師の現実から乖離した『教育改革』」『前衛』2007・2No.814)。教師のサラリーマン化である。

勝野正章さんは、「こうした現状を認識せず、ただ地域と学校の連携が強調され、規範の問題についても“学校が毅然とした態度をとる”“第一義的な責任は学校や教員にある”と言われても、学校の現場のなかでは、何の救いにもならないし、解決策にもなりません。すでに学校や教師は、子どもたちに対して、基礎学力といわれるところで手一杯で、学校の役割、自分の役割を限定的にとらえはじめているのですから」と語っている(『前衛』同上)。

言うまでもなく、教師は親に次いで子供の成長に重大な影響を与える存在である。親が労働として子供の教育をしないのと同じく、教師も労働として子供の教育にあたるべきではない。教育は事務をとったり製品を開発するのとは性格がまったく異なる(小沢一郎『日本改造論』)。
少し古い人には記憶にあると思うが、1974年の4・11ゼネストにおける日教組の対応をめぐって共産党は4月17日付けの機関紙『赤旗』で「教師=聖職論をめぐって」という論文を発表した。論文では、日教組の機械的「労働者論」、「ストライキ万能論」を批判し、教師は労働者であるとともに教育の専門家として、子どもの人間形成をたすけて国民全体に奉仕する責務をもっているという教師の統一的な全体像を提起した。
「自民党の『教師=聖職論』に単純に機械的に反発して、教師は労働者であるだけで『聖職』ではないなどというのも正しくありません。…こどもたちを歴史の形成者とする教育の仕事は、きわめて精神的、文化的なものであり、その専門家たる教師の活動は、こどもの人格形成にも文化の発展にも、直接の重大な影響をもっています。この意味では、教師はたしかに聖職といってもよいでしょう」(「赤旗」1974年4月17日)。
現在とちがって、文部省とその出先機関としての地方教育委員会および校長・教頭と、何かれとなく激しく対立しあっていた日教組指導部や社会党指導部などは、これに激しく反発したものである。しかし、その後、日教組は闘わない「連合」に加盟し、組合規約からスト条項を自ら削除した。

教師が高い使命感を持って専門性を発揮する環境を整備するのでなく、成果主義的な目標管理で競争させ、やる気を奪い、サラリーマン化させて、教師の質が向上しないことばかりに力を注いでいる限り、絶対に教育の質の向上、教育の再生はない。安倍の教育再生の破綻はすでに明らかである。

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