プロメテウスの政治経済コラム

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WE見送りと時間外賃金の割増率引き上げ  世界に例をみない日本の長時間労働

2007-03-14 20:53:12 | 政治経済
日本で8時間労働制を法制化したのは第二次世界大戦後、1947年に制定された労働基準法が初めてである。労基法第一条は「労働条件は人たるに値する生活を営むための必要を充(み)たすべきものでなければならない」とし、一日8時間、週48時間(現在は週40時間)労働制を定めた。8時間労働制を国際的な基準として取り決めたのは、1919年に結ばれたベルサイユ条約、第一次世界大戦の講和条約である。同条約は「労働編」を設け、貧困が社会不安を引き起こし、世界平和を危うくすることのないよう、労働条件を改善するための国際機関として国際労働機関(ILO)の設立を決めた。こうして創設されたILOは1号条約を採択し、「一日8時間かつ週48時間」を労働時間の上限と定めたのである。

戦前の日本では、劣悪な労働条件が繊維産業などの国際競争力の源泉にされていた。そのひどさは、『女工哀史』を持ち出すまでもなく、「ソーシャルダンピング」(不当廉売)として、国際的に非難を受けた。その反省から、労働条件の低さを国際競争力の道具にしないとの決意が、憲法25条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という規定にこめられ、労働基準法に結実したのだった。しかし戦後も、長時間労働を、国際競争力の源泉として「活用」する日本の資本家はILO1号条約を批准しようとしない。1号条約は労働時間の上限を定めたものであるが、日本の労基法では労使が協定(いわゆる36協定)を結べば、上限なしに残業させることができるのだ(残業の上限は現在、月45時間、年360時間が「目安」となっているが、なんの罰則もない)。つまり、日本の労働基準法は、事実上、残業時間の上限を法的に規制していないのだ。

日本の長時間労働の原因は、残業時間を法的に規制せず“青天井”になっていること、残業割増率が低水準のため、「人を新たに雇うより残業をさせたほうが得」になっていることにある。しかも、その低い残業代もまともに払わない(サービス残業の横行、管理者の拡大解釈による支払い除外)ことが常態化している。これを見て、ホワイトカラー・エグゼンプションはすでに導入されているという者もいる。しかし、制度として、残業代不払いを合法化することと、違法なサービス残業を労働者に強権的に押し付けることとは徹底的にちがう。違法であるかぎり、意識の高い労働者がクレームをつけることができるし、彼に連帯して他の労働者も不払いを是正させることもできるからだ

基準外労働時間にたいする割増率は、アメリカ50%(もっともWEとセットとなっているが)、ドイツ40%などで、もともと日本の25%は極めて低い水準である。それにしても、本来、過労死ラインを超える残業時間は禁止すべきはずなのに、わずか50%の割増賃金で容認するとは日本の労働行政はどうなっているのか。
財界(現在その中核は多国籍製造大企業)は、これまで製造業の生産現場で、派遣、契約などの非正規雇用を活用して、徹底的に労働コスト削減をやって生産性を上げてきたが、そろそろ限界を感じている。そこで、次のターゲットは事務・管理部門や技術・開発部門の労働者(ホワイトカラー)の労働コストを徹底的に切り下げて生産性を上げることである。いま、ホワイトカラー・エグゼンプションを、なにがなんでも実現したいと熱望している理由は、まさにかれらの課題の核心がここにあるからである。

もうけのためなら、働く人々の生活や賃金、労働条件はまったく関知しないというのが個別資本の論理である。「海外の低賃金と競争するには総額人件費管理の徹底が必要だ」といって、賃金を「下に下に」と押し下げる。中小企業の下請け単価も「下に下に」と切り下げる。コストを「下に下に」押し下げる試みは、日本だけの流行ではない。「新自由主義」の横行する資本主義諸国では、どこでも共通の現象だ。しかし、日本の場合は、独特の特徴がある。それは、サービス残業などによって、労働時間を際限なく延長して、ひたすら利潤を増やす方法とセットになっていることである。労働日の延長による絶対的剰余価値の生産は、日本の資本家がマルクスの時代と変わらない古典的本姓をいまも持ち続けていること、日本の労働者の抵抗力がいかに弱いかの証明である。自民党、公明党、民主党が国会で97%を占めることをなんとも思わない国民に自分の人生を大切にしょうといってもむなしいかもしれない。

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