プロメテウスの政治経済コラム

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「韓国併合」100年 日本の植民地支配の実態 平壌「朝鮮革命博物館」訪問記

2010-09-01 23:41:02 | 政治経済
「韓国併合ニ関スル条約」が統監子爵寺内正毅と内閣総理大臣李完用の間で調印されたのは、1910年8月22日のことであった。大韓帝国国民からの抗議・抵抗を恐れた明治政府は公布を1週間遅らせ、同月29日とした。公布を抑えていた間に、政治団体の解散、政治集会や演説会の禁止、批判的な新聞の廃刊などを強行し、韓国民の口を封じ手足を縛ったのだった。
このたび私は、北京経由で朝鮮民主主義共和国に入り4日間平壌を訪問した。「朝鮮革命博物館」の日本の植民地統治開始前後から解放されるまでの部分を約1時間見学する機会があったが、南の西大門刑務所歴史館とは力点の置き方の違いもあって興味深かった

 上記の写真は平壌の「朝鮮革命博物館」に展示されている一ブースである(特別に撮影の許可を貰った)。朝鮮国全体が、日本政府によって監獄に投獄され、拷問器で過酷に脅されていることを示している。

われわれが、 「韓国併合」100年というときの「韓国」は、大韓帝国のことである。大韓帝国(大韓国、韓国とも言った)という国号が使用されたのは、1897年から日本の植民地統治(1910年)開始の間の短い時期であった。朝鮮の支配をめぐる清国との戦争に勝った日本は、朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等を廃止させた。李氏朝鮮は1897年、清国との宗属関係がなくなった証として、国号を朝鮮国から大韓帝国に改めた[現在の大韓民国(韓国)と区別するため、「旧韓国」と呼ばれることもある]。
ところが1910年、「韓国併合ニ関スル条約」によって、大韓帝国を完全植民地化した日本は、日本勅令第318号によって、「韓国ノ国号ヲ改メ朝鮮ト称スル」こととした。この時点で韓国は日本の領土に編入されたのではなく、日王=天皇に統治される独立した地域ということになった。それで日本の内閣は韓国統治に干渉できず、日王=天皇の委任を受けた朝鮮総督が立法・司法・行政・軍事の全権を行使することになったのだ。そして、朝鮮総督は陸軍・海軍大将にかぎるということになり、「武断統治」が朝鮮植民地支配の特徴となった

 欧米帝国主義諸国に追いつき、肩を並べることを国策とした維新政府は早くから朝鮮の植民地化狙っていた。1875(明治8)年、朝鮮の都、漢城(現在のソウル)に近い江華島(カンファド)で朝鮮の砲台と砲火をまじえ、それをきっかけに、翌年、修好条規を押し付け朝鮮を開国させた。それは幕末に日本が欧米諸国から押し付けられた不平等条約を上回る不平等なものだった。これ以降、明治政府は朝鮮の完全植民地化を目指して、当時の帝国主義諸国間の動きを睨みながら、着々と布石を打っていった。他の帝国主義諸国の干渉を避けるために表向きの形を整えながら、朝鮮内の反抗には容赦のない武力弾圧を加えた。そして日清・日露戦争を戦い、1905年の第二次日韓協約で外交権を奪い、遂に1910年の併合条約へと突き進んでいったのだった。
日清戦争は、朝鮮から清国の影響を排除するためのものであり、日露戦争は朝鮮・中国東北(満州)の支配をめぐってロシアと争うとともに、英米に日本の朝鮮支配を認めさせるためのものであった

 「韓国併合ニ関スル条約」は、韓国の皇帝が日本の天皇に併合を申し出て、日本の天皇がこれを受け入れたという「任意の併合」を装っているが、どこの国の皇帝が「自国の全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ他国の皇帝陛下ニ譲與ス」ることに同意するであろうか。
総理大臣李完用に委任状を与えた最後の皇帝純宗は、次のような遺言を残している。
「併合認准の事件を破棄するために詔勅する。  過ぎし日の併合認准は強隣(日本をさす)が逆臣の群れ(李完用らを意味する)とともに勝手になし勝手に宣布したものであり、私がなしたことではないのだ。  私を幽閉し私を脅迫し私をして明白に話をさせないようにさせたのであり、私がしたのではない・・併合が私がしたのではないことを明白に知らしめれば以的の所為、併合認准と譲国の詔勅はおのずと破棄に帰してしまうだろう。皆の者よ、努力し光復せよ。朕の霊魂はあの世の冥々の中から皆の者を助けるだろう」(「今、『韓国併合』を問う」星雲社2010)。

 南の西大門刑務所歴史館では、「巨大な監獄、植民地を生きる」と題した特別展が現在開催中だという(「しんぶん赤旗」2010年8月29日)。
日本の朝鮮支配の実態は、1910年代は土地調査事業による「土地よこせ」、20年代は産米増殖計画による「米よこせ」、30年代は皇民化政策による「人よこせ」、40年代は徴用、徴兵による「命よこせ」――であった。
平壌の「朝鮮革命博物館」では特別の催しはなかったが街では10月10日の朝鮮労働党創建65周年祝典にあわせて多くの市民が練習に励む姿があちこちで見られた。「朝鮮革命博物館」の展示が1919年の三・一独立運動以降の満州東部の間島での金日成の抗日武装闘争(パルチザン)でいよいよ熱を帯びてくるのは共和国の成り立ちから言ってある意味当然であった。

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