プロメテウスの政治経済コラム

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小沢氏即時抗告  検察審「素人」論は天に唾するもの

2010-10-21 18:59:08 | 政治経済

民主党の小沢一郎元代表に対する東京第5検察審査会の起訴議決は違法で無効だとして、小沢氏は15日、国を相手に、議決の取り消しや検察官役となる弁護士の指定差し止めを求める行政訴訟を東京地裁に起した。強制起訴の手続きが始まるのを避けるため、指定の仮差し止めなども合わせて申し立てた。

これに対し東京地裁は18日、起訴議決の執行停止や強制起訴に向けた指定弁護士選任の仮差し止めを申し立てた問題について、申し立てを却下した。東京地裁は申し立て却下の決定で、「刑事裁判で争うこと」を促したにもかかわらず、小沢氏は21日、決定を不服として東京高裁に即時抗告した

小沢氏を起訴すべきだとした検察審査会の議決について、進歩的な言論人まで小沢氏を擁護するつもりはないと言い訳けしつつ、“「市民感覚」を盾に不起訴となった人物を法廷に引っ張り出すのはいかがなものか”などと批判している。私は、これらの議論の背景には、国民が参加する検察審を「素人」の判断だと蔑視するエリート意識が根強くあるように思う。しかし以下に述べるように、これらの検察審「素人」論は天に唾するものだ。

 

小沢氏や検察審の起訴議決を批判する側は、検察審で2回「起訴相当」と議決され強制起訴されることになったのに対し、検察審の審議は不透明だとか、「素人」の判断だとかいって、国民の間に不信をかきたてている。

しかし、これほど天に唾する議論はない。

もともと検察審査会は裁判所に設けられている「準司法」機関であり、起訴すべきだという議決も司法手続きの一環であり、行政処分ではない。検察審査会をめぐる過去の裁判例は、検察審を「刑事司法の一端を担う準司法機関」と位置づけ、行政機関の処分とは異なり、行政訴訟の対象ではないと判断していた。18日の東京地裁の却下決定も、「検察審査会は準司法機関であり、議決は行政機関の処分ではない。起訴の有効性は刑事裁判の手続きで争うべきだ」と判断し、行政訴訟の対象にならないとした。強制起訴をうけ有罪か無罪かを判断するのは裁判所で、小沢氏が起訴されたことに納得がいかなければ、裁判で争えばいいだけの話ある。行政訴訟を起こすなどというのは、強制起訴を恐れた時間かせぎではないかと思われても仕方ない

 

検察審査会による強制起訴の決定について、「専門家である検事が不起訴としたものを素人である検察審査員が起訴とするのはおかしい」とか、「だから無罪必至だ」と言い、もし無罪となったらどう責任をとるのか、市民感覚を盾にした「検審ファッショ」だ、とまでいう者もいる(佐倉奏「小沢氏起訴は市民感覚を盾にした『検審ファッショ』だ」『週刊金曜日』2010.10.15 819号)。

検察審査会の制度は、検察官が「不起訴」とした決定が、適切かどうかを市民の常識からみて判断する制度である。これまでも、政界・官界・財界の汚職事件などで、岸信介、中曽根康弘両元首相などの汚職疑惑が起訴の対象にならず、たびたび国民の批判の対象となってきた。検察審査会の制度は戦後すぐ設けられたが、審査の結果に強制権限がなかった。それが、司法への国民参加というなかで、裁判員制度と同じ昨年の5月から、2度の「起訴相当」決議をおこなえば、強制的に起訴となるように権限が強化されたものである

 

検察審査会のメンバーは有権者の中からくじ引きで選ばれる。一般の有権者が参加する検察審査会の議決が「素人」の判断だというなら、国民から選ばれた国会議員の選挙そのものも「素人」の判断である。「素人」の判断だと検察審の議決を批判するのは、主権者国民の判断を軽視することであり、それは結局みずからに跳ね返る。主権者国民の判断をいかがなものかと批判することは小沢のような議員を選んだ選挙民の判断をいかがなものかと批判することになるのだ。確かに名古屋の河村、大阪の橋下などをみていたら、主権者国民の判断をいかがなものかと批判したくもなる。しかし、小沢氏を起訴すべきという国民の判断は、まことに正しい。

なぜか。
大阪地検の事件に見られるように検察は、有罪とみた事件は証拠改竄までする一方、政治的事件などでは十分な捜査もせず、不起訴にする場合が多いのが特徴だ。今回の小沢氏の事件では、検察は、大きな社会問題にして、小沢氏の評判を落とし、「この程度でいいや」と、矛を収めた。裏金が絡む場合、資金の流れの客観的証拠を固めるためには、地道な気の遠くなるような労力が必要である。検察はそれを避けた。政治資金規正法の虚偽記載容疑である限り、責任者小沢は共同謀議を否認し続けてさえいれば、安全である。密室の共同謀議を論証することは、非常に困難であるからだ。有罪の確信がない事件は起訴しないのが検察の態度だといわれている。これに対して、国民から選ばれた審査会が、「それでは駄目だ」と待ったをかけたのが今回の構図である。


小沢氏は、問題の土地購入資金の出所、原資について、「献金してくれた皆さまのお金(政治資金)」「銀行融資(借入金)」「積み立ててきた個人の資金」「家族名義の預貯金だ」などと説明を、二転三転させてきた。政治資金規正法がザル法なら、小沢が無罪となって、このままでは、審査会制度そのものが打撃を受けかねない。国会の場での真相究明、証人喚問による政治的道義的責任の追及をなんとしても実現しなければならない所以である

 

 

 


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