プロメテウスの政治経済コラム

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韓国民主化運動と小林多喜二  20年前に刊行されていたハングル版『蟹工船』

2007-09-19 19:07:18 | 政治経済
2006年9月5日、日本共産党の志位和夫委員長が共産党の党首として初めて韓国を訪問し、訪韓の最初の日程として、日本の植民地支配に反対してたたかった独立運動家が弾圧、拷問、処刑された市内の西大門(ソデムン)刑務所跡につくられた歴史館を真っ先に訪問し、多くの韓国メディアから注目されたことは、記憶に新しい。50人の記者に囲まれ、志位さんの写真を撮るのに押し合いへし合いだったらしい。西大門刑務所歴史館には、日本の植民地支配下で独立運動家に加えられた残虐な弾圧と迫害の史料、監獄や処刑場、暴圧に抗したたたかいなどが展示されている。
志位氏は、記者団からこの歴史館を、訪韓して初めて訪れる場所として選んだ理由について問われ、「日本帝国主義の過酷な弾圧に抗し、たたかい抜いた朝鮮の愛国者に心からの敬意を表したい」「日本共産党は、1922年の党創立以来、朝鮮の独立運動に連帯してたたかい抜いた歴史をもっており、これを誇りにしています。私たちの“歴史的同志”に敬意と追悼を申し上げるために来ました」と答えた(「しんぶん赤旗」2006年9月6日)。
志位氏は、日本と韓国の連帯の歴史を示す「歴史的な史料」として日本共産党が戦前に発行した機関紙「赤旗(せっき)」(1931年3月1日付、32年3月2日付)のコピーを朴慶穆(パク・ギョンモク)館長に手渡した。 志位氏が手渡した当時の「赤旗」は、ガリ版刷りのもので、三・一独立運動記念日にあたり、朝鮮の独立運動への連帯を訴える論文がびっしりと掲載されていた朴館長は、戦前の「赤旗」をじっくり見ながら、「日本と中国、台湾、韓国が力を合わせて日帝を打倒しようという内容ですね。大事に保管いたします」と答えた(「しんぶん赤旗」同上)。

茶谷十六(秋田県歴史教育者協議会副会長)さんは、軍事独裁政権の下、「国家保安法」「反共法」などの弾圧法によって言論・思想が厳しく統制された韓国で、小林多喜二の作品が翻訳・出版されなかったことはやむをえないことだと考えていた。そして、ここ数年来、あの帝国主義日本が猛威を振るった時代に、侵略戦争と植民地支配に反対して闘った日本人作家がいたという事実を、是非とも知ってもらいと切実に思い、『小林多喜二全集』を持ち込み韓国の日本文学研究者と相談を進めていたらしい(「しんぶん赤旗」9月18日)。
ところが、韓国民主化闘争の激動の中で、1987年8月15日、ハングル版『蟹工船』(多喜二の「1928年3月15日」「蟹工船」「党生活者」の三つを一冊にした翻訳)が刊行されていたことを今年の2月に初めて知った。茶谷さんは、いきなりハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けたという(「しんぶん赤旗」同上)。
1980年の光州事件以来、韓国の民主化は進展したとはいえ、軍事政権下での多喜二作品の翻訳・出版はきわめて危険で、困難な事業である。翻訳者・李貴源(イ・グィウォン)とは、いったい何者であろうか。チング出版社とはいかなる出版社であろうか(「しんぶん赤旗」同上)。

今年6月、茶谷さんは、李貴源氏、チング出版社長・李相(イ・サンギョン)氏に直接面談できた。釜山大学の歴史学科で学びながら、李貴源氏は、全斗煥(チョンドファン)軍事独裁政権に反対する民主化闘争に参加した。当時、マルクスやエンゲルス、レーニンの著作は、持っているだけで逮捕・投獄の対象となった。李貴源氏は、日本語の読解力に優れ、グループのリーダーであった。多くの哲学や社会科学の書物を読む中で、文学作品を読む必要性に気づかされ、そうして小林多喜二の作品に行き当たった。昼はデモに参加し、深夜密かに翻訳作業を進めたという「1928年3月15日」の弾圧・拷問のさまは、当時の韓国の現実そのものであった。民主化運動に携わる自分たちと重なって「党生活者」に深い感銘を受けたという。チング出版社の李相氏は、当時30歳で、出版のたびに検挙・投獄された。「あの時代でしたので、著作権問題などの手続きもちゃんとしなくて」と言う李相さんに茶谷さんは、「あなた方がなさったことを一番喜んでいるのは、小林多喜二だと思います」と答えた(「しんぶん赤旗」9月19日)。

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