ネイサン・ダニエルとダンエレクトロ小史(8)

2019-10-10 17:28:30 | Dano Column
一九七四年、ネイサン・ダニエルは一家でハワイへ移り住むことになった。 ジェリー・ジョーンズはハワイでネイサン・ダニエルに会ったことがあるとのこと。彼はダンエレクトロのコピーモデルを製作し続けてきたが、二人してじっくりとダンエレクトロのあらゆるギターのこと、使用されたあらゆる材のことなど話したそうだ。しかし、それでもダンエレクトロの独特なボディシェイプの起源についてははっきりとはわからなかったらしい。彼は「もしそのデザインが一九五〇年代のあるディナーの席でナプキンの上に書き留められていたとすれば、その時代に戻って、ナプキンを手に入れたい!」と語ったという。

ジェリー・ジョーンズはミシシッピ州のジャクソンに生まれ、一九八〇年代の初めからナッシュヴィルでギターの製作と販売を始めた。当初は自身のデザインしたカスタムギターを販売していたのだが、ある客の一人がひどい状態のシルバートーンを修理のために持ち込んでから仕事の方向が大きく変わっていった。

彼はもともとダンエレクトロのギターに関心を持っていたが、リペアのために持ち込まれたギターを見て、自分がつくりたいのはこういうギターなのだと改めて思ったらしい。それから一九八四年にプロトタイプの製作を始めたのであったが、実はこれは未完のままとなっており、ピックアップのテスト用に使用されていたとのこと。

しばらくして別の客からロングホーンの六弦ベースの注文を受けたことを契機として、全面的にダンエレクトロのコピーモデルを製作するようになったのだという。ジェリー・ジョーンズのギターはオリジナルと同様に、トップとバックにメゾナイトを使用しながらも、ネックはメイプルであったり、調整可能なトラスロッドが入っていたり、ブリッジも一弦ずつ調整できるサドルにしていたりなど、現代的な仕様になっている。

彼は二〇一一年に引退し、ナッシュヴィルの工場を閉鎖した。

ネイサン・ダニエルは後年、いくつかのインタビューに応えているが、その中で、ダンエレクトロのギターに使用されたリップスティック・ピックアップやメゾナイトボディ、そしてフラットな指板などが醸し出す、得も言われぬサウンドの謎を聞き出そうとするインタビュアーに、大笑いをしながら「ナンセンス」と答えたという。

ネイサン・ダニエルによればダンエレクトロのサウンドが偶然の賜物であるとか超自然的な作用だとか言われるのはクリエイターとして恥ずかしいことなのだという。ネイサン・ダニエルが言うには、自分には合理的な裏付けがあり、技術的なノウハウもあり、何度も素材を検討し、試行錯誤しながら、そのうえでギターの製作をしたのだという。それが結果的に魔法の薬や呪文によって生まれたものに見えたとしても、である。

ネイサン・ダニエルはハワイではギターを含め、音楽関連の事業は一切していないが、ハワイ諸島間を航行するフェリーが悪天候で欠航とならないよう、転覆防止用のアウトリガーを発明したことが知られている。この発明は投資家の支持を得ることはできなかったが、最後まで発明家であったネイサン・ダニエルらしいエピソードであるといえるであろう。

一九九四年十二月二十四日、八十二歳でネイサン・ダニエルはこの世を去った。死因は心臓発作であった。

ネイサン・ダニエルはあるインタビューに答えて次のように言った。

「私は初心者でも手軽に買えて、演奏できる高品質のギターをつくることができてよかったと思っている。このことは楽器を継続していけるようにたくさんのプレイヤーを励ましたと考えたい」

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ネイサン・ダニエルとダンエレクトロ小史(7)

2019-10-09 18:03:21 | Dano Column
これまでダンエレクトロの成長の背景にあった、一九五〇年代後半から一九六〇年半ばまで続いたエレクトリック・ギター・ブームはついに終焉を迎え、一九六七年頃からは全盛期の売り上げの二十五%ほどになり、廉価モデルを製造していたメーカーは大打撃を受けた。そのような中、ネイサン・ダニエルはMCAにダンエレクトロを売却した。一九六六年のことであった。彼にはブームの翳りが予測できていたが、最盛期には五百人以上の従業員を雇用し、毎日百五十本から二百本のギターを生産していたダンエレクトロの企業価値はまだ維持されていた。MCAの会長は実は買収に反対していたと言われているのだが、ネイサン・ダニエルが買収後も経営にかかわることを条件に買収は成立した。

MCAは Music Corporation of America といい、一九二四年、シカゴに設立されたタレント事務所であった。一九四〇年代からパラマウント映画、米デッカといったメディア事業を次々と買収していき、総合的なメディア企業として成長した。一九九〇年に松下電機産業に買収され、一九九五年にはシーグラムに買収され、一九九六年には社名をユニバーサル・スタジオに変更、一九九八年からはユニバーサル・ミュージックを発足させるといった事業展開を図っている。

MCAの買収後、一九六七年にダンエレクトロはコーラル・ブランドを新たに立ち上げ、セミ・アコースティック・ギターを中心としたラインアップで販売を進めたが、今までのような通信販売からギターショップでの販売に切り替えたことやギター・ブームの終焉も相俟って、MCAの販売戦略はうまくいかなかった。

MCAは一九六九年にダンエレクトロの工場を閉鎖し、ウィリアム・へリングという人物に二万ドルで売却したという。その後の事情は複雑で、ダン・アームストロングが登場し、この時期のダンエレクトロをめぐる問題に関わってくるのであった。

ダン・アームストロングは透明なアクリル・ボディとカートリッジ式で簡単に着脱できるピックアップを採用したギターであるルーサイトやオレンジ・スクイーザーというコンプレッサーの開発で知られているルシアーであるが、ダン・アームストロングとダンエレクトロの関係はというと、まず、ダンエレクトロをモディファイしたギターを製作したというところにある。

ダンエレクトロの工場が閉鎖された頃、ダン・アームストロングとネイサン・ダニエルは会ったことがあるという。ダン・アームストロングのショップにネイサン・ダニエルが訪れ、ちょうどダンエレクトロのギターを調整していたアームストロングの作業を静かに見つめていたというのである。

その後の事情は複雑である。ダン・アームストロングがウィリアム・へリングからダンエレクトロのボディと商標権を買い取ったとか、アームストロングは実際は何もせず、モディファイ品のためのピックアップを蝋づけしただけだったのだとか、Unimusicという会社が介在して、ダンエレクトロの残りの部品の購入を承諾し、アームストロングに楽器の改良を依頼したのだとか、様々に話は出てくるが、どれも裏付けが取れない話のようである。しかしながら、ダン・アームストロングが残ったパーツを使用してベースやギターを製作し、アンペグを通じて販売されたということは確かである。
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ネイサン・ダニエルとダンエレクトロ小史(6)

2019-10-08 19:10:43 | Dano Column
最初期のモデルを除き、すべてのモデルに搭載されたリップスティック・ピックアップ、リラがモチーフとされている優美な曲線を持ったロングホーン、コカ・コーラのボトルを逆さにしたようなコーク・ボトル・ヘッド、当時は決して希少材ではなかったブラジリアン・ローズウッド(ハカランダ)を使用したフラットな指板、腎臓やアシカのような形をしたバイオモルフィックなピックガード、アルミニウムのナット、ボリュームとトーンが二段になったスタックノブなどといった外見上のことから、ネックの仕込み角を調整できるティルトシステム、弦を面でとらえる特殊なブリッジにより、音のサワリを実現したエレクトリック・シタールなど、その独自性は多岐にわたり、単なる初心者向けの低価格ギターとかたづけることのできない創意工夫に満ちている。
 
ダンエレクトロのギターのデザインは時系列でとらえれば、シングル・カッタウェイ(Uシリーズ)からダブル・カッタウェイ(ショート・ホーン)へ、そしてホーン部がより鋭くなった(アンプ・イン・ケース・モデル)というように、おおむね進化論的であるとみることができるが、形態学的にとらえれば一九六三年につくられ、徹底的に単純化され、直線的な形状を持つPro1を原型(Urdano)としたメタモルフォーズととらえることもできる。

ダンエレクトロが製作したモデルで最も売れたものはギターケースにアンプを組み込んだアンプ・イン・ケースといわれるものである。これこそが、ジョゼフ・N・フィッシャーが望んだギターであり、ダンエレクトロはその要望に見事にこたえたのであった。

初心者向けのギターはスチューデント・モデルと呼ばれる。ギブソンやフェンダーをはじめとするギターメーカーはプロやアマチュアのミュージシャンではない少年たちをターゲットに、ネックが短く、ボディも小ぶりなギターを製作するようになっていた。シルバートーンやエアラインといったブランドで販売されているギターもそういうものであった。ダンエレクトロが製造するギターも当然のことながら初心者の少年たちをターゲットにしていたのである。

のちにジョゼフ・フィッシャーは Tales of a Dinosaur と題されたエッセイを書いているが、その中で、ネイサン・ダニエルのことを「発明家であるが、予算の厳しい制約について理解していた」と言い、二人の共同作業が非常にうまくいったことを回想している。
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ネイサン・ダニエルとダンエレクトロ小史(5)

2019-10-07 13:46:03 | Dano Column
そして一九五四年、ダンエレクトロはギターアンプに加え、エレクトリック・ギターを開発した。ギターを弾いた経験のないネイサン・ダニエルにギター開発を決心させたのはシアーズ・ローバック&コーポレーションのバイヤー、ジョゼフ・N・フィッシャーであった。すでにシアーズはシルバートーンブランドで廉価なギターの販売をしていた。それに商品を提供していたメーカーはハーモニーやケイ、そして日本のテスコなどであった。その頃最も売れていたアコースティック・ギターはハーモニーのH六〇五であったが、このモデルと同様に低価格で、初心者用として売れるエレクトリック・ギターの開発をダンエレクトロに持ちかけたというわけであった。

ネイサン・ダニエルはギターを製作するにあたり、友人であるジョン・ディアンジェリコにアドバイスを求めた。ディアンジェリコは彼にフレットの位置やブリッジの位置、そしてイントネーションなどについて助言をしたという。

こうして職人技なしに大量生産できるギターが生まれたのであった。

一九五四年といえば、すでにフェンダーからはストラトキャスターが販売されていたし、ギブソンもレスポール・モデルを販売していた。この二つのモデルが現在においてもエレクトリック・ギターを代表するモデルであることを考えれば、ダンエレクトロは後発のギターメーカーであったということができ、そのための独自なマーケティング戦略が必要となっていたことは言うまでもない。

ダンエレクトロのギターの基本的な構造は次のとおりである。

・コーク・ボトル・ヘッド
コカ・コーラのボトルデザインは、カカオの実から発想されたという。ボトルの真ん中が大きく膨らんだ独特な形状は、コカ・コーラの販売戦略に大きく寄与したと言われている。ダンエレクトロのヘッドストックはちょうどこのコカ・コーラのボトルを逆さにしたように見えることから「コーク・ボトル・ヘッド」と呼ばれるようになった。

・ポプラネック&ハカランダ指板
ダンエレクトロのギターにはトラスロッドは入っていない。そのかわりにスチールのチューブが二本入っている。ネイサン・ダニエルによれば、そのほうがネックが反らないとのこと。

・パイン材のボディ
初期のモデルはセミソリッドで、パイン材のセンターブロックがあったが、のちにフレームのみとなる。

・トップ&バック材にメゾナイト
メゾナイト(Masonite)はウィリアム・H・メイソンが一九二四年に発明したもので、Masonが発明した新素材なのでMasoniteと名付けられた。このメゾナイトは一九三〇年代から一九四〇年代にかけて、ドアや屋根、壁などの建材として幅広く使用されたとのことだが、木材のチップを繊維状にし、それを圧縮成型したものである。建築資材として使用されているのだから強度も十分で、安く大量に調達もできるとして、これがネイサン・ダニエルのフェイバリット・マテリアルとなり、ダンエレクトロのギターのボディやアンプのキャビネットに使用されることとなった。ネイサン・ダニエルがメゾナイトを採用した背景にはシアーズがメールオーダーによる組み立て式住宅の販売をしていたということもあるだろう。シアーズの住宅販売部門である「シアーズ・モダン・ホーム」は一九〇八年から一九四〇年までの間に、バンガローや別荘、邸宅など四五〇種類以上の住宅を販売し、十万以上の家族、およそ五〇万人が住んだという。時期はいくらかずれるものの、シアーズ・モダン・ホーム用の建築資材の中には大量のメゾナイトが含まれていただろうし、すでに家具調の木目がプリントされた状態のものもあったであろう。
  
・ベイクドメラニンピックガード
ショートホーン以降のモデルからピックアップや電装部品をピックガードにマウントする方式が採用された。

・リップスティック・ピックアップ
アルニコマグネットに写真用タイマーで、巻き数ではなく巻く時間を合わせて直接コイルを巻いたものをテープでカバーし、口紅のケースに詰め込んだもの。そうすることでユニットをシールドする効果が得られる。

・ローズウッド・サドル
ブリッジ部は、テールピース一体型のステンレスの板の上にローズウッド製のサドルをネジ止めするというもの。前後に移動、斜めにスラントできるようになっておりオクターブをある程度合わせることができるようになっている。

・ボディ周囲にエンボス加工されたテープ貼付
ボディの接合部分を隠すために壁紙などに使われるテープをボディの周囲に貼った。

・アルミニウムナット
アルミニウム削り出しのナットが指板にネジで固定されていた。

・トータル・シールデッド
電装部を断熱材などで使用される銅箔で包むことで、外部からの電気的な干渉から保護するというもの。展示会では意図的にネオンサインの下でデモ演奏をし、こうした環境下でもノイズを出さないことを示して見せていた。

また、ダンエレクトロのギターには、次のシリーズがある。

・Uシリーズ
一九五六年から生産されたシングル・カッタウェイのモデル。ダンエレクトロには珍しく、様々なカラーバリエーションがあるのが特徴。

・ロングホーンシリーズ
一九五七年から生産された、おそらくリラ・ギターをモチーフに生まれたダブル・カッタウェイのモデル。四弦ベース、六弦ベースのほか、三十一フレットを備えたマンドリンの音域までカバーするギターリンがある。

・ショートホーンシリーズ
一九五九年から生産されたダブル・カッタウェイのモデル。スタンダード、デラックス、コンバーチブル、ハンド・ビブラート付き、四弦ベース、六弦ベースなど様々なタイプがある。

・ベルズーキ
一九六一年に製作されたギリシャの弦楽器ブズーキをモチーフとしたシングルネックとしては世界初の十二弦ギター。このモデルからヴィンセント・ベルトの協力関係が密になる。

・プロ1 
一九六三年の一年間のみ生産・販売されたモデル。ギターの曲線をできうる限り直線的にし、装飾的な部分を徹底的に排除したモデル。ダンエレクトロのイズムが凝縮したモデル。

・アンプ・イン・ケース
一九六二年から生産された初心者向けのオール・イン・ワン・モデル。ギターのハードケースにアンプが内蔵されたもの。一九六九年までの間に何回かのマイナーチェンジがあり、全部で五種類のモデルがある。

・DANEシリーズ
MCA買収後のシリーズ。ソリッド・ボディとセミソリッドボディがある。ボディにはポプラ材等を使用している。フェンダーのように非対称型のボディシェイプを持ち、AからEまで5タイプのモデルがある。

・コーラルシリーズ
MCA買収後のセミ・アコースティックを中心としたシリーズ。ボディは日本の遠州工芸製であった。また、エレクトリック・シタールもこのブランドから販売された。
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ネイサン・ダニエルとダンエレクトロ小史(4)

2019-10-06 12:38:38 | Dano Column
レオ・フェンダーは一九〇九年、レス・ポールは一九一五年、一九一二年のネイサン・ダニエルと合わせ、この六年間でエレクトリック・ギターの歴史に大きな影響を与えた三人が生まれたということはとても興味深いことである。三人に共通したところは、少年の頃ラジオに熱中したということである。しかし、大きな違いは、レス・ポールは当時最高のギタリストの一人であったが、レオ・フェンダーとネイサン・ダニエルはギターを弾くことができなかったということである。それゆえに、同じソリッド・ボディのエレクトリック・ギターの開発といっても、レス・ポールは演奏中のハウリングを嫌がり、そうならないためにソリッド・ボディを求めたのに対し、レオ・フェンダーやネイサン・ダニエルはより単純な工程でギターを生産するためにという、エンジニアリングの視点からソリッド・ボディを求めたところに違いがあるのである。こうして、作業の細分化による各工程の単純化、簡素化により誰もが組み立てることができ、均一な品質の製品を大量に作ることができるための工場とそれにふさわしいエレクトリック・ギターが誕生するのである。

第二次世界大戦中、ネイサン・ダニエルは海兵隊に志願しようとしたものの、周囲から反対されてニュージャージー州のフォート・モンマスにあるアメリカ陸軍の通信隊に民間人として勤務した。

彼が戦争中にしたことは、戦場において無線の送受信に干渉するジープやバイクのエンジンから発生する電子ノイズをシールドする、単純で経済的な方法を発明したことであった。これは彼の自慢の一つであり、何度となく「私のおかげで国は何百万ドルの損失をせずに済んだ」と語っていたという。

戦争が終わると、下請けから独立したメーカーになりたいと考えていたネイサン・ダニエルに対してエピフォンは「わが社の独占か、さもなければよそでやってくれ」と要求したのだった。このためエピフォンとの取引は終了することとなったが、幸い、新しい取引先にはモンゴメリー・ウォードやシアーズ・ローバックのような通信販売の会社があり、一九四七年の独立からエアライン、一九四八年からシルバートーンといったブランドに廉価なギターアンプを提供するようになった。この頃からダンエレクトロはアンプメーカーとして急成長していくのであった。

世界で最初に通信販売を始めたのはアメリカのモンゴメリー・ウォードで、一八七二年のことであった。彼は地方の農村に物を売る行商をやっていたが、そこで農民たちが大きな不満を抱いていることに気がついた。それは自分たちが作った農作物は安く買い叩かれてしまうのに、自分たちが必要とする日用品は高く売りつけられるというものであった。当時は農村部には店舗がなく、都市部に買い物に行くのは大変なことであった。そこで行商人が存在し、農民に生活必需品を販売していたのであったが、都市部から農村部に流通する過程で中間マージンが発生するので、農民は高い買い物をさせられることになっていた。モンゴメリー・ウォードは中間業者を介在させず、ダイレクトに商品を届けることができればいいと考え、メールオーダーによる直接販売の仕組みを作ったという。この事業は次第に受け入れられて成長し、一八九六年、後発でシアーズ・ローバック&コーポレーションがカタログ販売を始めた。そして一九〇〇年にはシアーズが売り上げでモンゴメリー・ウォードを追い抜いてしまい、以後、モンゴメリー・ウォードは巻き返すことはできなかったという。モンゴメリー・ウォードにはエアライン、シアーズ・ローバック&コーポレーションにはシルバートーンと、それぞれ電気製品、楽器などのブランドがあったが、ダンエレクトロはその両方に商品を提供するようになった。
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ネイサン・ダニエルとダンエレクトロ小史(3)

2019-10-05 11:41:12 | Dano Column
ネイサン・ダニエルは飛び級して大学に入学した優秀な学生であった。彼が通ったのはニューヨーク・シティ・カレッジで、一八四七年に創立された大学である。創立者は一八五八年(安政六年)に日米修好通商条約を締結したことで知られるタウンゼント・ハリス(Townsend Harris 1804-1878)である。この大学には授業料が無償であったために、アメリカに移住してきたユダヤ人労働者の子供たちがこぞって入学した。そのようなこともあって、ニューヨーク・シティ・カレッジは「プロレタリアートのハーバード」の異名を持つことになった。ネイサン・ダニエルもリトアニアからアメリカに移住してきた両親を持ったユダヤ人であった。彼はこの大学を大恐慌の時期に中退した。

リトアニアからアメリカへの大量の移住は、一八六七年から一八六八年に起きた飢饉と一九〇三年から一九〇六年にかけてのユダヤ人襲撃(いわゆるポグロム)が大きな原因であった。一九一四年までの間、人口のおよそ二〇%となる六三万五千人がリトアニアを離れたという。

アメリカへのユダヤ移民の歴史は十七世紀にさかのぼることができる。第一の波として一六五四年のスペイン・ポルトガルなどの地中海系ユダヤ人の移民。第二の波として一八二〇年代のドイツ、アシュケナージ系ユダヤ教徒の移民。そして第三の波として十九世紀末のロシア系ユダヤ人の移民。一八八〇年から一九一〇年の三〇年間にアメリカへ移住したユダヤ人は二〇五万人以上と言われている。

移民増加の背景にはロシアのユダヤ人に対する隔離政策があった。さらに帝政末期の社会不安を反映した不満のはけ口としてユダヤ人に対するポグロムがあった。一九〇五年には一〇一の都市で三千人の死者と一万人以上の負傷者が出たという。

一九二八年には四二〇万人ほどにもなったというアメリカでのユダヤ人口はユダヤ人のプロレタリアート化を引き起こした。ドイツ系のユダヤ人は中産階級化し(アップタウン・ジュー)、ロシア系のユダヤ人は極貧にあえいだ(ダウンタウン・ジュー)。ロシア系ユダヤ人は家族の絆が深いのが特徴で、大都市に集中しテネメントと呼ばれる共同住宅で暮らした。

ネイサン・ダニエルの両親もポグロムから逃れてリトアニアからニューヨークへ移り住んだ。それから間もない一九一二年九月二十三日、ネイサン・ダニエルは生まれたのであった。

こうした出生のため、ネイサン・ダニエルは就学する年齢になっても英語を話すことができなかった。そのため、小学校の最初の学年をやりなおさなければならなかった。後年、彼は初めて英語を理解した時のことを息子のハワードに次のように語ったそうだ。

「まるで誰かが明かりを点けたみたいに、突然、私はすべてを理解した」

彼自身は電灯の比喩を用いたが、この決定的な瞬間はそれまでノイズしか出していなかったラジオのチューニングがぴったりと合った瞬間、まるで生きているかのように喋りだし歌いだすようであった、とも言い換えることができそうである。少年の頃のネイサン・ダニエルがラジオに夢中になったのも、実はこのあたりに理由があったのではないかと思わせる。
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ネイサン・ダニエルとダンエレクトロ小史(2)

2019-10-04 17:26:17 | Dano Column
この契約からしばらくすると、ネイサン・ダニエルの手になるアンプの存在は大手メーカーであるエピフォンにも知られるところとなり、彼はエピフォンのアンプの製作を請け負うこととなった。それは一九三〇年代半ば頃から第二次世界大戦が終了した後の一九四六年まで続いた。

エピフォン。アルファベットで表記すればEpiphone。この単語は Epi と phone の二つの部分に分けることができる。エピフォンとはその創設者であるエパミノンダス・スタトポウロ(Epaminondas Stathopaulos1893-1942)の名から取られた Epi に音を意味する phone を接続して生まれた造語なのである。

エピフォンの前身はエパミノンダスの父親アナスタシオスがニューヨークに工房を開いたことから始まった。社名をエピフォンにしたのは一九二八年。それまではバンジョーの製作で知られていたが、この頃からギターの製作もするようになった。一九四一年からはソリッド・ボディのギターの試作を始め、商品化には至らなかったが、レス・ポールの考案した「ログ」はエピフォンの部品でほとんどがつくられていた。しかし、エピフォンはエパミノンダスの死後低迷していき、一九五七年にギブソンに買収された。
 
ネイサン・ダニエルが「アンプ・マニアの青年」から、それを仕事にするようになった頃、エピフォンはリッケンバッカーのエレクトリック・スチール・ギターの成功にあやかって、一九三五年に「エレクター」シリーズを製造・販売することにした。当時はギターとアンプはセットで販売されるのが一般的であったが、そのアンプの製造を請け負ったのがネイサン・ダニエルだったのである。「エレクター」アンプは把手が金属製で、フロントグリル部に曲線と直線で図案化されたEの文字と斜行する稲妻をあしらった、当時流行のアール・デコ調にデザインされたアンプで、このアンプはジャンゴ・ラインハルトらが使用するところとなった。

エピフォンがあやかったリッケンバッカーのスチール・ギターとは、その形状から「フライパン」(Frying Pan)と呼ばれるモデルである。これを創案したのはジョージ・ビーチャム(George Beachamp 1899-1941)で、彼こそが世界で初めて販売を目的として開発されたエレクトリック・ギターに自ら創案したピックアップを搭載し、ギターサウンドを電気的に増幅した人物なのであった。

エレクトリック・スチール・ギターの開発は、一八八〇年代にハワイで始まった音楽が一九三〇年代にミュージカルや映画に取り入れられ、アメリカで大流行したことが契機となったものである。ビーチャムはエレクトリック・ギター開発以前にもアコースティック・ギターにコーンを仕込むことでギターの音量を増加させようとする「リゾネーター・ギター」の開発にも関わっていた。この開発プロジェクトにおいてニッケルシルバーのボディを提供したのが、アドルフ・リッケンバッカー(Adolph Rickenbacker 1886-1976)であったのである。

ビーチャムはミュージシャンでもあり、ギターという楽器がバンド全体のサウンドに埋もれないだけの音量を獲得するためにはどうすればよいかを常に考え、ギターの弦振動を電気的に増幅する方法にたどり着いたのであった。

ブラッド・トリンスキー=アラン・ディ・ペルナの「エレクトリック・ギター革命史」によれば、エレクトリック・ギターが生まれるための三要素に「電気」、「真空管」、「ラジオ」があるという。そのうち最も根源的なものは「電気」であろう。この「電気」は一八八〇年、トーマス・エジソンの時代から始まって、一九三〇年代には広範囲に普及したが、それでもまだまだ多くの人々にとって珍しい未知のものであったに違いなく、その電気をコントロールできる発明家や企業は、さながら魔術師か秘密教団かといったものであったのかもしれない。同じ頃、ダンエレクトロのみならず、 Electric という単語や稲妻のモチーフを社名やロゴに使用した企業は数多あったが、そこにトーマス・エジソンの存在を垣間見ることができるかもしれない。一八七七年にニュージャージー州メンローパークに研究室を開設し、その後エジソン・ゼネラル・エレクトリック・カンパニーを創設した「発明王」は、長い間発明家の起業モデルであったと考えられるからである。
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ネイサン・ダニエルとダンエレクトロ小史(1)

2019-10-03 19:40:04 | Dano Column
ダンエレクトロ。アルファベットで表記すれば Danelectro。この単語は Dan と electro の二つの部分に分けることができる、ダンエレクトロとは、その創設者であるネイサン・ダニエル(Nathan Daniel 1912-1994)の姓から取られた Dan に、電気を意味する electro を接続して生まれた造語なのである。

ダンエレクトロはかつてアメリカに存在したギターアンプおよびエレクトリック・ギターを製造・販売するメーカーであった。それは一九三四年頃、ネイサン・ダニエルの最初の工房、当時彼が住んでいたニューヨークのアパートメントのベッドルームから始まった。その後、彼はアンプの製作を請け負って得た二〇〇ドルでマンハッタンにロフトを借り、そこにデスクやワークベンチを導入し、作業環境を向上させた。その頃はDaniel Electrical Laboratoryと称していたが、その後、ニュージャージー州のレッドバンクで会社を設立し、社名をダンエレクトロにしたのは一九四七年のことであった。同じニュージャージー州のネプチューン・シティに新社屋を建てたのはエレクトリック・ギターの生産を始めてからしばらくした後の、一九五九年頃のことになる。この建物は工場閉鎖後も残り、現在でもその面影をとどめている。

ネイサン・ダニエルは十代の頃からラジオに熱中した。彼が最初に作ったものは水晶ラジオで、十二、三歳の頃であった。彼はニューヨークのコートランドストリートにあったラジオ街に足繁く通うようになり、二十代の頃はラジオの修理工をやっていた。

ラジオ街(Radio Row) とは、日本でいえば秋葉原のような、ラジオや電子部品を販売する小売店が軒を並べる高密度な商業集積で、一九二〇年代からラジオ放送が盛んになるに伴い、数多の都市で発生した。ニューヨークのラジオ街はコートランドストリートで一九二一年に生まれたが、一九六六年になると世界貿易センターの開発のために解体されることとなった。そしてその後、ニューヨークではラジオ街を代替するような小売店の集積が再現されることはなかった。

ネイサン・ダニエルは、ラジオの修理だけにとどまらず、アンプの製作も手がけるようになっていた。彼は独自の回路を考案し、その回路によるアンプはラジオ街にあったTho's Bargain Basement との契約が成立するところとなった。

ネイサン・ダニエルが独自にデザインしたアンプの回路は、周波数特性に悪影響を与える入力トランスを排除したプッシュプル回路のことである。プッシュプル回路とは、特性の等しい二つの真空管を正負対称に接続して、大きさの等しい逆位相の入力信号を加えて入力信号の正負の部分をそれぞれ増幅し、これを重ねることで歪みが少ない大出力が得られるという回路である。その動作がまるで押したり引いたりしているように見えることから、プッシュプルと呼ばれるようになったのである。

プッシュプル回路のメリットはシングルの増幅回路と比較すると四倍程度の出力が得られること、また、電源に対する効率がよいことが挙げられる。逆にデメリットはトランスを使用することにより周波数特性が悪くなるといったことが挙げられる。そのデメリットを排除したネイサン・ダニエルのプッシュプル回路は広い周波数帯域にわたって、フラットな周波数特性が得られたという。

とはいえ、当時はフラットであることがよいサウンドの条件であったといっても、現代の感覚では必ずしもそうではない。とりわけギターアンプのように忠実に再現するべき原音がもともと存在しない場合は、フラットである必要はないと考えられている。そこにアンプ独自の面白さ、アンプそれぞれの個性が生まれてくるのだとも言えるのである。いずれにせよ、ネイサン・ダニエルが考案した回路は独自性に富んだものではあったが、当時の彼には特許を申請する費用を捻出することができなかった。
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