テセウスの船

2013-10-12 20:09:30 | Music Life


西田製作所に預けていたGUILDのアンプT1-RVTが先日戻ってきた。手に入れた時からリヴァーブをかけると歪んだり、全体的にノイズが乗っていたりといった症状が出ていたので、今回一通り診てもらったのだが、その原因は真空管にあり、それを交換したらアンプは見事に復活した。

今回は真空管の交換程度で済んだわけだが、50~60年代あたりの古いアンプを安心して使うためには、いくつか部品を交換しなければならない場合がある。電解コンデンサや抵抗、ケーブル、場合によってはスピーカーも。ギターアンプを電子部品の集合体として考えれば、同じ規格の部品と交換するのであれば同じ結果になるはずだが、悩ましいのは部品を交換した場合、そのアンプを今までのアンプと同じものであるとみなしていいのかどうか、あるいはここまでの交換ならよいが、これを交換してしまったらそれまでのアンプではなくなる、というような部品はどれか、境界線はどこかというような、そのアンプをそのアンプたらしめている本質は何かという、存在論的な問題が生じてくることだ。

存在論的な問題といっても言い換えれば、フルオリジナル以外同一とみなさないのか、回路や外観が本質で、それに変更がなければ部品が交換されていても同一とみなすか、ということである。アリストテレスを援用すれば、事物の本質を担うのは事物を構成している素材としての質料ではなく、素材の構成を制御している本質的な存在構造としての形相であるとされるが、なるほどそうかと思いつつも話はそう簡単にはいかない。私はフルオリジナルにこだわっているわけではないが、外観や回路の変更はしたくないし、なるべくなら部品の交換もしないですませたい、というのが基本的なスタンスではある。現行品であれば同じ部品が容易に手に入るのでそれほど問題にはならないが、それがフェンダーのツイード期のヴィンテージアンプともなれば、やはりオレンジ色のアストロンが他のコンデンサに交換されていたりするのは多少なりともがっかりしてしまうということはあるだろう。古いアンプになればなるほど同じ部品が手に入らなくなり、部品の交換ができなくなるということはそれが壊れてしまったらそれで終わりということで、長い時間の経過は、あるものに生命的な有限性・一回性を与えてしまうものなのである。

もう一つの問題がある。あるものの部品が全て交換されたとして、それでも同じものといえるのか、また、交換された古い部品を集めてつくられたものはいったい何なのか、という問題。これはいわゆる「テセウスの船」という、古代ギリシャからある問題なのだが、再びアリストテレスを援用するならば、質料が違っても形相や目的が同一であれば同一とみなしてもよいという立場に立てば部品が全て交換されたものも同じものといえるし、質料も同一でなければ同じものとはみなせないという立場であれば古い部品を集めてつくられたもののほうこそが同じものということになる。

これはつまるところ、リイシューがいいか、ヴィンテージがいいかという議論になってくるのであって、どちらにこだわるかは人それぞれということになるのだが、古代ギリシャから人々はそんなことばかり議論していたというわけ。
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