小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

婦長さん(医療エッセイ)

2023-10-19 18:05:18 | 小説
婦長さん

さて、ここで私はあることをかいておかなくてはならない。ちゃんと小説をかきたく、こんな雑文形式の文はイヤなのだが、やはり、かいておきたいことはかいておきたい。今の私が研修させてもらってる病棟の婦長さんは、すごい純日本的なフンイキの女の人なのだ。当然、結婚してて、ご主人もお子さんもいるだろうが、スレンダーで、髪を後にたばねて、仕事している時の真剣な表情は柳のような眉毛がよって、隔世の美しさである。婦長さんは絶対、和服が似合う。年をとっても、美しさが老いてこないのである。若いときの写真は知らないが、今でさえこれほど美しいのだから、若いときはもっと美しかっただろうとも思う一方、年をへて、若い時にはなかった円熟した美しさが表出してきたのか、それはわからない。ともかく、今、現役美人である。街歩いてたらナンパされるんじゃないか。私は位置的に、いつも、婦長さんの後ろ姿をみるカッコになっているのだが、標準より、少しスレンダーであるが、量感あるおしりが、イスの上にもりあげられ、行住坐臥の私を悩ます。性格は、まじめで、人をバカにすることなどなく、ふまじめさ、がチリほどもなく、良識ある大人の性格。ジョークはそんなにいわず、神経過敏でなく、あっさりしていて、人に深入りしないが、あっさりしたやさしさがある。日本女性のカガミという感じ。つい、いけないことを想像していまうのだが、後ろ手に、縛ったら、眉を寄せて、無言で困惑して、限りない、わび、の、緊縛美が出そう。和服の上から、しばればいい。憂愁の美がある。婦長さんは、多くの人間がもつ、倒錯的な感情を持っていない。のだ。そういう性格が逆に男の緊縛欲求をあおるのだ。婦長さんにはメイワクをかけた。あまり病棟へも行かず、医局で、せっせと文章ばかり書いていた。病棟の数人の移動があった時、歓送迎会でるといっといて、でなかった。私は、ガヤガヤした所がニガ手で。つい、でません、と興ざめなことばがいえなくて、行くと言ってしまった。翌日、先生、まってたんですよ。ナースでも、そうなんですけど、そういう時は、会費は、料理の用意はできているのだから、お金は、出席しなくても払うことになっています。料亭では当日キャンセルはできないので。他の人も、そういうキソクなので、といって、言いづらそうに会費をおねがいします、と言った。私はガヤガヤした所がニガ手だけだったので、お金を払うのは何ともない。ので後で幹事の人に払った。そしたら、すごいお礼をいってくれた。その他、すごく、何事につけ、よくしてくれた。医療は、ならうより、なれ、であり、そうむつかしくなく、ベテランナースなら、かなりできるものである。しかし、責任所在性から、医・看分離は、現然として、存在する。レントゲン読影、その他、看は医への深入り、自己主張は、できにくい。どうしても、上下関係となってしまう。婦長さんも、四年の看護大学をでて、医学生ほど膨大量ではないが、解剖学から、一通り、人体の構造、病気の理論は学んでいる。専門は看護学というものなのだろうが、一般の人よりはずっと人体、や、病気にも医学的にもくわしく、毎日、病人をみている。しかし、医学生は、人体の構造から、病理学、この世にあるすべての病気を、しらみつぶしにオボエさせられていて、やはり、知識の点ではナースは医者には、その点かなわない。
私は自分にハッパをかけるため、自分の知ってることは、人に話すようしているのだが、きどりと、思われそうで、つらいところ。知らない。知らない。とケンキョな、ナルシなくせをつける人は成長しにくいのである。己を成長させるハッタリというものを知らない人は武士道の心得をかいた葉隠をよんでない人である。
医者もナースも、人の気づかなかったことを、正しくいいあてたり、診断できると、得意で、うれしいものである。ナースが脳CTで小脳がどれかわからないので、ちょっとおどろいた。その他、体のスライスや胸部CTの見方など。脳の立体的構造は、ちょっとむつかしいものである。又、医学生は、人体のすみからすみまで、オボエさせられ、又、レントゲン読影にしても、検査値や、患者の症状と関連して、理解する勉強をつめこんできたのである。しかもナースはレントゲンを医者のように、ほこらしげには、手にとってみるのはできにくいフンイキではないか。勝負の条件が対等ではない。それは、ちょうど、医学の勉強に99%自分の時間をギセイにし、小説、レトリックの勉強をする時間を全然もつことをゆるされなかった人間が、十分凝った文章で、スキなく、たくさん小説をかくことができない、のと同じである。ベテランナースは、患者が、こういう症状の時は、どう対応すればいいか、ということは、研修医とはくらべものにならないほど知っている。又、キャリアから、人間なら、だれだって、プライドがでてくる。研修医は、宮沢賢治のようにオロオロするか、弁慶の勧進帳をするか、である。医者は学んでいるが、ナースは医者ほど学んでいない。人生のキャリアで上の人に、先生、先生と、たてまつられた呼び方をされ、学んだから当然知っているだけでCTでみえる臓器の説明をするなどプライドを傷つけてしまうので、つらいのである。もっとも私はレントゲンの読影も感染症の理論も、専門家からみれば全然わかっていない。バレンタインデー、二月十五日、の日が近づいてきた。看護婦さんはもちろん、婦長さんも、チョコはくれないだろうなーと思ってた。
力山を抜き、気は世をおおい。もし、私が医学に私の命をかける気なら、毎日徹夜で勉強する医師になっただろう。やる気がないのではない。私は、小説家、ライター、作家になることに私の全生命をかけているのである。病棟のナースとも、全然うちとけなかった。だけど、バレンタインデーの当日、はい。先生。と、屈折心の全くない笑顔で、言って、チョコをくれた。うれしかった。表面はポーカーフェイスで、さも、無感動のように、ああ、ありがとうございます、と言ったが。内心は、おどりあがっていた。義理だろうが、何だろうが、かまわない。全部その日の晩、一人で食べて、あき箱は宝物としてとっておこう。ホワイトデーにはごーせーな、お礼をするぞ。一万円くらいかけて、病棟のみなさん全員にもたべてもらえるようなチョコ返すぞー。

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