慈明(じみょう)という和尚さんは眠くなると自分の股に錐をさして、そうして坐ったそうです。
「私が頼りにするものは坐禅のほかに在りません」、そういうことだったんだと思います。
だから眠っていられなかったのです。
慈明和尚さんは「眠ることも坐禅である」ということは分かっていても、そんなことはしなかったのです。
「眠るのも坐禅、腹が減れば飯を食うのも坐禅だ」みんなそんなことは知(識)っています。
しかし慈明和尚さんはそれをせず(知っている事を使わず)に坐られたのです。
おシャカ様を始めとして歴代の覚者といわれる方々はみんなそうして苦労なさったのです。
その事が無ければ「法(道)」というものは「成就」しないのも事実なのです。