私たち衆生は息をしていても、今、息をしているということは誰も知(識)り得ません。
何故でしょうか。
それは、私たち衆生は何時でも何処でも何をしていても「道(法)の真っ只中」にいるからです。
「道(法)」から外れた処で生活(活動)している人は誰一人いないのです。
「今」は何時でも何処でも何をしていても「今」です。
此の事(今の事実)をはっきり自分のものにすることです。
是れは知(識)ることではありません。
私たち衆生は息をしていても、今、息をしているということは誰も知(識)り得ません。
何故でしょうか。
それは、私たち衆生は何時でも何処でも何をしていても「道(法)の真っ只中」にいるからです。
「道(法)」から外れた処で生活(活動)している人は誰一人いないのです。
「今」は何時でも何処でも何をしていても「今」です。
此の事(今の事実)をはっきり自分のものにすることです。
是れは知(識)ることではありません。
「道(法)」の上に於いて間違いやすいことですが、ものを知(識)るということはものを知(識)っているだけ「道(法)」と隔てが有(在)るということです。
分かるとか理解するというようなこともそれだけ余分のことなのです。
ものを知(識)るということが迷いの一つだということを知(識)ってもらいたいのです。
本来からいえば、ものを知(識)っているだけまだ「そのものに成り切れていない」ということなのです。
因みに「不」の字は否定や除去にあらずして、物の真実体をあらわす字なのです。
「非」の字も同様で非は非如来です。
如来も如来のくさみが取れて本当の如来です。
如来は私たち衆生の思うようなものではないのです。
非如来は「非の如来なり」と読み、くさみが取れた所を非という字を使ったのです。
「不知不識(しらずしらず)」とは「無意識のうちに、思わずしらず」という意味です。
一般の理解では不識とは「識らず、知らないこと」とされていますが、宗教では不識を「識を越えた意味、分別を以てはかることの出来ない意味」ととらえています。
識を「言偏(ごんべん)」とするのは言語によって道理を聞知するからです。
余談ですが、不識と不知とは甚だ差別(しゃべつ)があり、「知」の字の方が重いのです。
ですから道を知るとは、心の底より知るということなのです。
道を識るとは一寸見覚えがあるまでの意なのです。
「縁起(因縁果)の法」に随って消滅を繰り返しながら活動を続けている宇宙の相(すがた)は、個の存在を認めることは出来ません。
是れを「不識」といいます。
人間(にんげん)もまた宇宙の活動体の中から生じた活動体ですから、個 即ち自我の存在を認めることは出来ません。
是れもまた「不識」です。
総ては「自我の認識」に因って束縛や苦悩が生じるのです。
しかし、それらを認識する時間も空間も全くない「空」なのも「事実」なのです。
その中にあって心の安らぎと自由を成就した覚者(本来の人)は、何時でも何処でも、何をしていても「一切の衆生」と共に在って修行を続け、停滞することを知(識)らないのです。
是れもまた「不識」といいます。
私たち衆生の身のまわりにはたくさんの選択要素があります。
無限の中の沢山ある選択の中から一つを選んでいます。
逆を言えば一つを選ぶ為に他の全てを切り捨てるという事でもあるのです。
「我が儘」とか「我のまんま」という視点に私たちはもっと立っていいのかもしれません。
平等と公平は違います。
しかし、愛情は公平に注ぐべきだと思います。
問題を問題にする、そこに問題が在ると思います。
日めくりカレンダー、一日一日めくることは年をとるのではなくて
「若く(ゼロに)」なっていくと考えたい。
悩める人を救うのではなく、悩める人と共に生きて行く人に私は
なりたいのです。
任せ切ると開けてきます。
悟れたようで貴方が悟り切れないのは、任せ切れないからです。
結果は一つです。
「今の自分の様子、今の事実」を自分のものにするかどうかの問題
だけです。
善い人にも悪い人にも、人は思ったように成れるものです。
相手の痛みを知る言葉は「切(せつ)」といい、相手の心が痛いほど
わかる「親切」、物事の大事さを痛いほどわかる「大切」。
「やり方」の前に先ず「あり方」を見直すべきだと思います。
田中克彦 著 「ことばと国家」より
”差異を差別(さべつ)に変えるのは、人なり” と。
私見ですが、”「差別(しゃべつ)」を「差別(さべつ)」にかえたのも
人なり” と思います。
「己は是れで好い」と」決め込む人が世の中には多いと思います。
空(くう)を 空(くう)と知(識)らずして、有(う)と見誤ると病になります。
世界のあらゆる現象は有りのままの有りつぶれなのです。
色(しき)を見ることは自分の心(こころ)を見ることです。
仏と実相は異名(いみょう)にして、同体なのです。
二宮金次郎 曰く 「我は論語を口に説かず身に説く」と。
知る(識る) から 分かるへ成ってほしいと思います。
何故かと疑問を持ち続けて欲しいと思います。
善は悪と、陰は陽と一つに成らなければなりません。
自分は自分の意思で生まれてきたのではありません。
「働く」とは動くばかりではありません。
動かないのも働きであり、動くのも働きなのです。