おシャカ様から見れば、私たち衆生が「現象世界(娑婆世界)」の中で一刻も早く
「真理(本来の自己)」に目醒めるか、それとも多くの時間を費やして「迷妄の
限りを尽くすドラマ」を演じるかは、その人の「自由意志」に任されているのです。
「仏は無為(一切為さず)」なのです。
そこで「慈悲の菩薩」が出現したのです。
おシャカ様から見れば、私たち衆生が「現象世界(娑婆世界)」の中で一刻も早く
「真理(本来の自己)」に目醒めるか、それとも多くの時間を費やして「迷妄の
限りを尽くすドラマ」を演じるかは、その人の「自由意志」に任されているのです。
「仏は無為(一切為さず)」なのです。
そこで「慈悲の菩薩」が出現したのです。
さらには、このようにして造られる「世界観」が肉体の「五官(眼・耳・鼻・舌・触)」
から入ってくる情報のために、本来の状態から制約されている特殊なものの見方に
過ぎないにも拘わらず、それ以外の視点に立った経験が意識の表面に全く上がってこない
ために「客観的(主観的)」な把握が出来なくなっていたからです。
この辺の事情をはっきり理解できるのは、私たち衆生のひとりひとりが
「法を自覚(体得)した時」であり、その時に限るのです。
「法」から言えば、「現在(私たち衆生が自分と他人を知覚 ”区別”している)意識の
状態」というのは、この地球上で私たちひとりひとりが「悟りの自覚(体得)を得る」
ために生じている一時的な「現象として存在」しているものに過ぎません。
地球上のほとんどの人間の心が強力な「固定観念のエネルギー」に支配されて
いるのが「現在」なのです。
そして、地球人類の平均的な意識は歴史を遥かに越える長い期間にわたって、
「法を自覚(体得)していない」という現象が起こっていたという「事実」が
あります。
別の言い方をすれば、「自分と他人(外の世界」とが、全く別々の存在であると
信じ込んでいるような意識の状態が造り出されていたということです。
このような「現状」は、私たち衆生の多くが「物質世界」という幻影の枠組の中に
どっぷり浸かっていて、ひとつの肉体によって制限された意識の状態で外の世界を
認識していたためなのです。
私たち衆生の多くが「人間界の法(禅)」を基準にした「世界観」を強固に
造り上げています。
この世界観を通して、「現象を見ること〈これは実は我見なのですが〉」が
日常生活の全てになっているために、「平常心是道(びょうじょうしん ぜどう)」
の真意が理解し難いことになってしまうのです。
このことは「法と禅」が別のものに成ってしまっているからなのです。
「法(禅)を説明する」ことは、一見親切なようで、「真実」が顕れるのを妨げる
障害物をわざわざ築くような、お節介になってしまう場合も非常に多くあります。
おシャカ様も「四十九年の生涯の説法」を晩年には「四十九年一字不説」と
全否定して居られます。
道元禅師は、「この法は人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、
いまだ修せざるにはあらはれず、證せざるにはうることなし」と、はっきり
お示しになって居られます。
言葉によって起こされる「感覚(概念)の一切」は、人間(にんげん)の心の中に
生じている「法の働き」であり、外の世界を認識しようとする意識の働きによる
心に投影された「想念の波動」なのです。
「自然界(しぜんかい)」に実在しているエネルギー状態そのものではないのです。
このことは「自然界(しぜんかい)」が何の境界もなく存在しているにも拘わらず
人間(にんげん)が「個々の現象」を「理解(説明)」する都合上、有限なものしか
扱うことが出来ないために「特定の波動領域」に名前を付けて取り扱うことになるのです。
しかし、実際には波動領域には「表現の媒介」となる「実体(手段)」があるのでは
ないのです。
「物質の世界」では、私たち衆生の肉体の脳が外界を認識する機能によって
意識が制約されています。
その結果、私達衆生の意識〈これは錯覚であり、単に過去を認識しているだけなのです〉
の認識が「現在の瞬間」という断面を造り出しているために、「過去から未来に向かって
流れる時間」という「感覚(概念)」が生まれるのです。
「水」について、考えつくことが出来る一切のものは、どれも私たち衆生の
「五官」を通して入ってきた限られた情報を、心の作用で変化したものです。
過去に創られた心の中の創造物を「記憶」から引き出して再現しているだけなのです。
ですから、「そこに実存しているもの(水)」とは根本的に違っています。
それでも私たち衆生は「水」について、観ている、識っていると言えるのでしょうか。
物理学を始めとする科学全般で用いる「理論や概念」は、そこに顕れている
「現象(実在)」を人間(にんげん)が理解するための「手段あるいは説明」
のための方策として便宜上使われているのです。
実際に起こっている「現象(実在)そのもの」ではありません。