「修行」という言葉は、サンスクリット語の原義では「気付く」という程度の
意味であり、努力を伴うというニュアンスはありません。
「修行」とは現象世界で自分自身を認識する「行為(自覚)」であり、
宇宙全体と合致する御業(みわざ)であるということです。
「修行」という言葉は、サンスクリット語の原義では「気付く」という程度の
意味であり、努力を伴うというニュアンスはありません。
「修行」とは現象世界で自分自身を認識する「行為(自覚)」であり、
宇宙全体と合致する御業(みわざ)であるということです。
私たち衆生の多くは、「日常の経験」をそれが「五官(五感)の世界〈極めて限られた世界〉」
でのみ通用している出来事であるという事実には全く気付いていません。
まるで「宇宙のどこにでも当てはまる真実」であるかのように、無意識のうちに
一般化してしまう傾向にあるのです。
私たち衆生の「自然界(じねんかい)」への理解は、「五官(五感)」という
小さな窓を通してごく限られた側面を見ているに過ぎないのです。
別の言葉で説明すれば、「私たち衆生の心」が外側の世界という「虚像」を
造り上げて、それを「現実」だと思って、それに囚われているに過ぎないのです。
私たち衆生が眼で見、耳で聞き、鼻でにおいを嗅ぎ、舌で味わい、手で触れる
ことに因って知覚している世界を「五官の世界」といいます。
「五官の世界」は余りにも「現実感」を伴っている為に、これを「五感の世界」
といいます。
私たち衆生は、「五官(五感)の世界」を外の世界として実際に存在している
ものであると思い込んでしまっています。
しかし、これはつまり「自分の心の創作物」を知覚しているのに過ぎないのです。
これはある意味では、「実際に存在しているもの(実在)」が「現象として顕している
表現のうちのひとつの側面」といういい方ができるかもしれません。
自分が大きく成ることを「成る」というのです。
「成る」には、智慧で成るのです。
成って成って成り果てに初めて「成る」のです。
「成る」とは自分の中に自分をつくり、内に生きることです。
木でも草でも中から大きく成長していくのです。
これから、「仏道修行(無所悟、無所得の修行)」が始まるのです。
「信解行證入(しんげぎょうしょうにゅう)」の大切な所です。
信解行證入1 2015/06/01
信解行證入2 2015/06/02
信解行證入3 2015/06/03
「修行」と「修業」は違います。
私見ですが、修業とは習学であり、修業の卒業は「証書」であり、その「証明書」は
「人から人への業(ぎょう)の受授」なのです。
修行とは、絶学であり、修行の卒業証書は印可證明(いんかしょうみょう)であり
「法」は法から法、仏から仏への「法」の受授なのです。
自らが自らを完全に救い得たことを「立証」し、おシャカ様並びに歴代の覚者の
「法」の正しさをも同時に「立証」し、ここに初めて「正法(正伝の法)」といえるのです。
このことを「法の受授、印可證明(いんかしょうみょう)」というのです。
「立証」とは「実証」することです。
「実証」とは、「法」を「事(事実)」においても「理(理論)」においても
証明することです。
そもそも論理的に用いる観念や考え方の筋道そのものは、心の中の創作物
であり、実体のない物です。
ですから、「論理的証明」というものは、ある状況について、内部に矛盾のない
モデルを与えることが出来るという点で「現象世界」での用事にはある程度役立ちますが、
「実在(事実、今の事実)」には全く無力(お手上げ)なのです。
「論理的証明」というものは、既に確かであると合意の出来ているものを
根拠にして、証明したいこととの間に矛盾が生じないように筋道を立てる
という作業が基本です。
仏教には「印可證明(いんかしょうみょう)」というものがあります。
これは先輩が後進の所説、得法を「證明印可」することです。
仏教は私たち衆生がおシャカ様と同様に「法そのもの(法身自体)」に徹し得て
その処からその教えの正しさを「立証(実証)」し得る教えなのです。
「悟り」について周囲のほとんどの人達は、「悟り」を自分達の制約された
意識状態でしか判断することが出来ませんでした。
それで、「悟り」について理解することは勿論のこと、その存在についてさえ
「知る人ぞ知る」だったのです。