「回向文(えこうもん)」にも「仏身は法界(ほっかい)んに充満し普く
一切群生(いっさいぐんじょう)の前に現ず」とあります。
「帰復自然(じねん)なり」とはそれです。
お互いの様子というのは「仏身」なのです。
「法界に充満し」とは、一杯一杯で行き場がないのです。
全ての物は「因縁生」として実体も何も無い処からあらゆる活動が出発したのです。
そのことを坐禅に因って本当に「我が物」にする必要が有(在)る
のです。
「我が物」で有ることを徹見するのです。
然してそれを「実證」しなければなりません。