「此の物」がさまざまなものを見たり聞いたりするのに、何処で聞いて
何処にそういうものが有(在)ったり無かったりするのでしょうか。
いちいちがその時その場所における「因縁生(いんねんしょう)」としての
活動体があって、何も持ち物は無いのです。
「此の物に住する処が無い」というと寂しそうに感じるお方があるかも
しれませんが、「此の物」は手当たり次第自分なのです。全体なのです。
私たち衆生は狭い処にうずくまって自分の住所を求める必要はないのです。
「此の物」がさまざまなものを見たり聞いたりするのに、何処で聞いて
何処にそういうものが有(在)ったり無かったりするのでしょうか。
いちいちがその時その場所における「因縁生(いんねんしょう)」としての
活動体があって、何も持ち物は無いのです。
「此の物に住する処が無い」というと寂しそうに感じるお方があるかも
しれませんが、「此の物」は手当たり次第自分なのです。全体なのです。
私たち衆生は狭い処にうずくまって自分の住所を求める必要はないのです。