Serge Reggiani - Le temps qui reste:
「生命のカウントダウン」
Combien de temps...
Combien de temps encore
Des années, des jours, des heures, combien ?
(下線部訳:残された時間はどれくらいなのだろう
どれくらいまだ生きられるのだろう
数年か、数日か、数時間か、どれくらいなのだろう?)
Quand j'y pense, mon coeur bat si fort...
Mon pays c'est la vie.
Combien de temps...
Combien ?
Je l'aime tant, le temps qui reste...
Je veux rire, courir, pleurer, parler,
Et voir, et croire
Et boire, danser,
Crier, manger, nager, bondir, désobéir
J'ai pas fini, j'ai pas fini
Voler, chanter, partir, repartir
Souffrir, aimer,
Je l'aime tant le temps qui reste
(緑色の部分解説:残された時間に欲すること。
それは名詞ではなくて、動詞の数々なのだ。
生きると言うことは動詞を持ちえるということなのだから。
動詞が次々と口から放たれる。
下線部は辞書に出ている無変化の形なので
各自辞書を引かれると良いと思う。
その間に「J'ai pas fini, j'ai pas fini」が一行挿入される。
「私という人間は、まだ、終わってはいない!」という、
一番声が大きくなっている部分である。
この緑色の部分の全体は、二つの
Je l'aime tant, le temps qui reste...
によって上下をはさまれている。)
Je ne sais plus où je suis né, ni quand
Je sais qu'il n'y a pas longtemps...
Et que mon pays c'est la vie
(下線部訳:人生がいつどこで始まったのか
自覚はもうない、そう遠い昔ではない
祖国とは、地図上にあるのではなく
心臓が鼓動を始めた、人生のスタート時の
場所なのだ、時なのだ。)
Je sais aussi que mon père disait :
Le temps c'est comme ton pain...
Gardes-en pour demain...
(下線部訳:そういえば父さんがよく言っていた
人生の持ち時間は目の前のパンと一緒だよ
使い切らずに、明日のために明日の自分のために
しっかり取り置きしておくんだよって)
J'ai encore du pain
Encore du temps, mais combien ?
(下線部訳:私にはまだ目の前にパンがあるのだろうか?
人生の持ち時間がまだあるのだろうか?
あるとすれば、どれくらいあるのだろう?)
Je veux jouer encore...
Je veux rire des montagnes de rires,
Je veux pleurer des torrents de larmes,
Je veux boire des bateaux entiers de vin
De Bordeaux et d'Italie
Et danser, crier, voler, nager dans tous les océans
J'ai pas fini, j'ai pas fini
Je veux chanter
Je veux parler jusqu'à la fin de ma voix...
Je l'aime tant le temps qui reste...
(緑色の部分解説:この部分も欲することとして
動詞の基本形が並んでいる。今回は
動詞に修飾語がついていて、
気持ちが的確に伝わるように工夫されている。
やはり「J'ai pas fini, j'ai pas fini」
の声が切実に発せられる部分が挿入されている。
ここがクライマックス。
そしてこの歌のテーマである
Je l'aime tant le temps qui reste...
が最後に繰り返されている。)
Combien de temps...
Combien de temps encore ?
Des années, des jours, des heures, combien ?
Je veux des histoires, des voyages...
J'ai tant de gens à voir, tant d'images..
Des enfants, des femmes, des grands hommes,
Des petits hommes, des marrants, des tristes,
Des très intelligents et des cons,
(緑色の部分解説:ここは動詞ではなくて
名詞が来て、本が読みたい、旅行がしたい
その後は、会いたいがくる。会いたいの対象は
固有名詞ではなくて、不特定の
いろんな種類の様々な人たちが登場する。
過去を振り返っているのではなく
まだこの先を未知だけを見ているからだ。)
C'est drôle, les cons ça repose,
C'est comme le feuillage au milieu des roses...
(緑色の部分解説:映画のところで書いているが
「すでにこの世の日常性からは浮遊していて
感覚が時間的にも場所的にも別次元に突入している。」
からles consがこんなところに紛れ込む。)
Combien de temps...
Combien de temps encore ?
Des années, des jours, des heures, combien ?
Je m'en fous mon amour...
Quand l'orchestre s'arrêtera, je danserai encore...
Quand les avions ne voleront plus, je volerai tout seul...
Quand le temps s'arrêtera..
Je t'aimerai encore
(緑色部訳:オーケストラが演奏をやめても
まだ踊り続けるつもりだ
あらゆる飛行機が飛ぶのをやめても
たった一人でも飛び続けるつもりだ
カウントダウンがゼロに到達しても
まだ残されたゼロの時間をさえ大切に愛しむつもりだ)
Je ne sais pas où, je ne sais pas comment...
Mais je t'aimerai encore...
D'accord ?
(下線部訳:私はどこへ行くのか
どうなるのかわからない
けれど、その時でさえ
残されたゼロの時間をまだ
大切に愛しむつもりだ
わかったかい?了解してくれる?
これが君(いま目の前に残っている時間)への
私の愛しい想いのすべてだ。
作詞作曲家と関連映画がわかる:
・・・・・・・・・・・・・・・
Serge Reggiani - Le temps qui reste:
「生命のカウントダウン」
自分自身の声となって聞こえてくる。
今月初めに延命して何がしたいのか考えてみた。
すると心の底から回答が吹き出てきた。
それはレジアニが歌う緑色の歌詞の部分と
偶然にも一致していた。
この歌を聴いた時の衝撃の理由である。
自分自身の声となって聞こえてくる、その理由である。
//////////////////レジアニに関する余談/////////////////////////
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Barbaraが自伝でレジアニに触れていないのは
思い出したくも無いような結果に終わったからだ。
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Serge Reggiani: BIO
Paroles: Jean-Loup Dabadie,
musique: Alain Goraguer, 2002
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追記:2015年7月19日(日)
この曲はある映画の最後に流れる曲のようで
聞いた観客はそこで座席に縛り付けられる
状態になるそうだ。
映画のタイトルは「deux jours a tuer」
昨日は作詞家や作曲家、そして映画のことを
詳しく調べようとして、半日以上、PCの前から
離れなくなって、あわてて途中で切り上げた。
調べていると「Le temps qui reste」という
タイトルのオゾン監督の、この曲と同名の
別の映画まで現われてきたのだ。
二つの映画の原作者やストーリを追う時間は
もう無かった。調べたかったのは
おそらく両映画とも、主人公の人生のカウントダウン
に関する映画だということはタイトルやあらすじから
想像できたが、どんな種類の
何ゆえのカウントダウンかわからなかった。
そこで映画のBLOGを
書いているBruxellesの古い友人に
SOSを出してそこのところを質問してみた。
友人からの速攻の回答。↓
ジャック・ベッケル監督の映画の方は
日本未公開
オゾン監督の方は「ぼくを葬る」という邦題で
DVDにもなっている、とのこと。
こちらがオゾン監督の映画の紹介ペイジ;
Time To Leave (2005)
前者の主人公は予想通り末期癌患者
後者の主人公も余命3ヶ月。
前ペイジの「生きる」の歌の方は
高齢者すべてに共通する心境だが
両映画の主人公は
生命がカウントダウンに入っているという点で
御尻に火がついている、従って
明日が今日のようにあるだろうと思える人たちとは
何もかも大きく隔てられてしまっていて、
すでにこの世の日常性からは浮遊していて
感覚が時間的にも場所的にも別次元に突入している。
私が聞いて衝撃を受け、レジアニのこの歌に
異常に共感してしまったのもやはり、そこなのだろう。
昨夜古いメモ帳を見てこんな書き込みを発見した。
平成18年3月:生に対する執着が無いことに気づく。
現在の私がそこから浮遊してしまった日常性を
現在からみると逆に異次元に見える過去を
その一行の中に認める結果となった。
何故ならそれは安心した日常性どっぷりの中の
ある種の単なる老境に過ぎないからだ。
追記:2015年7月25日
ひとつの映画の主題歌(?)が
もうひとつ別の映画のタイトルと同じ?
何と何がどのように影響しあっているのか
いないのか、頭が混乱する。
一応前後関係を整理してみる。
Ozon監督の映画はBecker監督の映画よりも先
○Le temps qui reste, Francois Ozon film 2005
(フランソワ・オゾン 脚本)
英題: Time to Leave 邦題:ぼくを葬る
○Deux jours a tuer en 2008 par Jean Becker
(Scénario : Éric Assous et Jérôme Beaujour)
原作はFrançois d'Épenouxの同名小説
英題:Love Me No More 邦題:存在せず
Musique: Alain Goraguer
(レジアニの歌が流れるのは、こちら)
Reggianiの歌はOzon監督の映画よりも先
○Le temps qui reste interprété par Serge Reggiani 2002
歌詞は偉大な作詞家Jean-Loup DABADIE:
Deux jours a tuerの原作となった同名小説は
Reggianiの歌「Le temps qui reste」よりも先
○Deux jours a tuer, François d'Épenoux, publié 2001:
時系列に並べても、かえって混乱するだけかもしれない。
わかっているのは
Reggianiが亡くなったのが2004年なので
Ozon監督はReggianiの死の翌年に
Reggianiの3年前の歌と(Dabadieの歌詞と)
同じタイトルの映画をつくったと言うこと。
Becker監督は7年前のFrançois d'Épenoux氏の小説
「Deux jours a tuer」を映画化するに際し、
映画の最後で、4年前に亡くなったReggianiの
6年前の歌を流したと言うこと。
Dabadieの詩の力か
あるいはReggianiの歌唱力ゆえなのか、
大きな存在感のあるシャンソンだと言うことに間違いは無い。
Le Temps Qui Reste
No.1 & No.2 & No.3 & No.4 & No.5 & No.6 :
日本人シャンソン歌手の方々の挑戦にも期待したい。
追記:2015年7月29日
いろんな人のこの歌を何度も繰り返し聞いている。
さすがはフランス人、それぞれに歌詞を読み込んで
深い歌唱を示していると思う。
こういった歌詞は今までシャンソンの中にも
無かったので、内容の表現力が問われる歌となっている。
ただこのDabadieの歌詞、普遍的な心理かというと
そうでもない。結構「時間」という物理的な着眼に
限定している。「時間」という限定の中でも
「Le temps qui reste」に限定していて
「Le temps qui passe」の視点が無い。
普遍的な心理かというとそうでもない。
と書いたのはそのためだ。
Dabadieは哲学的かつ物理的な詩を書いたが、
体験ではないと言うことだろう。
実体験ではこの歌詞は書けない。
簡単に言うと「生命のカウントダウン」が既に
限定だと気づくべきだと思う。
実際の体験者だと
「人生のカウントダウン」という視点に
捕獲されるはずである。
(生命には他者が絡んでこないが
他者との「関係性」なしの人生はありえない)
そうなると「遺書」やら「終活」やら「末期医療の選択」
やら「看取り、見送り、身仕舞い」などの雑多なもの
(生命の尊厳が蔑ろにされるほどに
周囲の思惑に絡みとられて、
非常に残酷な視野狭窄にみまわれる
カウントダウンの過程)が
入り込んできて、「歌」にはならなくなる。
残り少なくなって輝きを増す生命の純粋性が
「周囲の思惑」や「日常どっぷりの生者達の都合」
によって灰かぶり状態になり、まず仮死に追い込まれる。
(読んでいないので無責任な発言になるが、
これがFrançois d'Épenoux原作のテーマ
ではないかと思う。
だからこの歌を最後に出して限定による「純粋性」を
クローズ・アップしたのではないかと)
この歌が歌詞として成功しているのは
Dabadieが前代未聞の物理的かつ哲学的視点
に「限定」したそのミラクルにあるのだと思う。
「カウントダウン」に入った者が捕獲される
日常的状況的心理、とはかけ離れているからこそ
人の心に突き刺さり、純粋に
「生と死を」覚醒させる「歌」となるのだろう。