夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

仲秋の名月も見ざりき

2014-09-21 22:40:50 | 短歌
先日、短歌初心者講座の教室に入る前、エレベーターで出席者のお一人と一緒になり、話していたときに、
「この間、お月見には行かれたんですか?」
と尋ねると、
「いいえ。…ちかさださんは?」
「いえ、実は私も。」

昨年の仲秋は、後楽園で月を見、歌も詠んだ私だが、今年はそれどころではなく、せっかくの名月も仕事帰りに車窓から眺めただけだった。

「月見もしない、歌も作らないでは、歌詠み失格ですよね。」
と言って笑ったが、月見をする時間もなく、名月を見ても心に響かないときだってあるのだ。
言い訳めいているが、その後で心に浮かんだ歌。

忙しき日々の勤めのまぎれにぞこの月夜さへ愛(め)でずやみにし
みな人のもてはやすなる名月もわれは浮かるる心ともなし
みまかりし友も祖母らもかの世にて今宵の月をいかにしのぶや
望月はめでたけれども今のわれはかかる明(あか)さにひかれやはする
皎皎(かうかう)と夜空を照らす望月のまばゆさにあへず目をそむかれぬ
月の顔見るは忌むなり竹取の昔語りにありしを思ひ出づ
望月の影はくまなく照らすゆゑ心ぐまあるわれは怖ぢにき

正岡子規展

2014-09-20 22:20:47 | 日記
今日の授業で、夏目漱石と正岡子規の交遊について話していたら、ある生徒が、
「昨日、正岡子規の命日だったんでしょ?」
「よく知ってるね。『糸瓜忌』と言って…」
と、絶筆三句の話などをした。


本来なら、この記事は昨日のうちに書きたかったのだが、先日、岡山・吉兆庵美術館で「正岡子規展―止まぬ文学への情熱―」を観に行った。
子規の生涯と文学を、当時の資料を中心に紹介したもので、前半は少年時代の絵から、野球に夢中になった学生の頃、東京帝大退学後の新聞「日本」の記者時代が主に取り上げられていた。展示品には複製も多かったが、歌稿『竹乃里歌』(明治15~33年)にはやはり興味をひかれる。展示ではちょうど、
久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも
若人のすなる遊びはさはにあれどベースボールに如(し)く者はあらじ
など、野球を詠んだ歌の頁が開かれていた。

展示の後半は、子規が病をわずらいこの世を去るまで。
その資料の中では、松山市立子規記念博物館所蔵の、明治33年6月20日夏目漱石宛書簡が特に印象に残った。
これは、死の二年前、子規がイギリス留学前の夏目漱石に、近況報告をしたためたものである。
此頃は昔日の勇気なく迚(とて)もあれもこれもなど申事は出来ず歌よむ位が大勉強之処に御座候
小生たとひ五年十年生きのびたりとも霊魂は最早半死のさまなれば全滅も遠からずと推量被致候
と自分の余命が長くはないことを自覚した書きぶりであり、漱石とはもはや再会がかなわないことを予期していたと思われる。
  年を経て君し帰らば山陰のわがおくつきに草むしをらん
  風もらぬ釘つけ箱に入れて来し夏だいたいはくさりてありけり
など、漱石が留学を終えて帰国する頃には、自分はすでに亡骸となり、墓の下で苔むしているだろうと詠んでいるのがせつない。

一方で、展示品の数々からは、子規が不治の病という現実を受け入れる覚悟をし、残りわずかな人生を一日も無駄にしないよう、懸命に生きた姿が伝わった。
一日遅れではあるが、今日はせめて子規の遺徳を偲ぶこととしたい。

モンゴメリと花子の赤毛のアン展

2014-09-18 23:52:33 | 日記
天満屋岡山店で開催中の「モンゴメリと花子の赤毛のアン展」を観に行った。

会場の展示の前半は、L・M・モンゴメリの人生と創作の軌跡について。
私はモンゴメリについては今までほとんど知識がなく、彼女の創造の源泉が、日記やスクラップブックにあることも初めて知った。
モンゴメリは日記を9歳の時から書き続けており、リーガルサイズ(356×203㎜)の大判ノート(大きさ、厚さとも図鑑並)に自ら写し替えるほど、熱心に記録していた。
スクラップブックも、新聞や雑誌の記事を切り貼りするだけでなく、デザインにも趣向が凝らされ、アートな感覚に溢れているのが見ていて楽しかった。

モンゴメリは流行に敏感で、新しもの好きでもあった。
コダックの一眼レフで撮影するばかりか、自宅に暗室を作り自ら現像までし、カメラ女子のはしりだった、という説明を読んだときは、思わず笑ってしまった。


一方、村岡花子についての展示は、先日弥生美術館で見た「村岡花子と『赤毛のアン』の世界展」と重なる部分もあって、いっそう興味深く感じた。

今まで知らなかったエピソードだが、村岡花子は七歳で大病を患い、その時に辞世の歌を詠んでいたそうだ。
  まだまだと思ひて過しをるうちにはや死の道へ向ふものなり
父親が利発な花子に期待をかけ、兄妹のなかでひとりだけ高い教育を受けさせたというのももっともだ。

10歳で花子が編入学した東洋英和女学校は、独自の英語教育をしており、午前中は日本語、午後は英語での授業を行っていた。
おかしかったのは、寄宿生に義務づけられた「60の英文」で、起床から就寝に至る一日の行動が60の短文で示され、これを彼女らは暗誦、実行しなければならなかったのである。
1.The rising bell rings at six o'clock.
2.I get up at once.
3.I take a sponge bath.
4.I brush my teeth.
5.I comb my hair.
6.I dress myself neatly.
朝6時のベルでただちに起床し、タオルを濡らして身体を拭き、歯を磨き、髪をとかして、服をきちんと着る。
から始まり、
58.The last bell rings at half past time.
59.One of the foreign teachers comes to our rooms to say “Good-night”.
60.We all sleep quietly until the rising bell rings again.
夜9時半に最後のベルが鳴り、外国人の教師がおやすみの挨拶に来て、静かに翌朝まで就寝。

女学校を出、山梨英和での教師時代を経て、東京・築地の教文館に採用されてからの花子のことは、ドラマで見ていた内容と重なるので、特に興味深く見た。
先日も紹介した「花子のラブレター」も、その実物が4通ほど展示されていた。後に夫となる儆三への道ならぬ恋の思いが綴られた手紙を見ると、こちらまで胸がしめつけられる。

『赤毛のアン』の直筆翻訳原稿も展示されていたが、TVドラマでは大判の用紙に書かれている原稿が、実物はB5版ほどで意外に小さいのに驚いた。また、村岡花子のラジオ放送を録音した音声も会場で聞いたが、「ごきげんよう。」に始まる花子の語りが、けっこう早口なので、こちらにも少し驚いた。
ドラマと実際の花子の違いも楽しみつつ、得るものも多い展示会だった。

歌学び、初学び (その十二)

2014-09-15 22:37:48 | 短歌
今回の私の歌は、先日紹介した子規庵の歌を持って行った。

(提出歌)
  根岸なる子規庵をわれ訪れき夏はつる日の日射しの中を
(添削後)
  根岸なる子規庵をわれは訪ねたり夏はつる日の暑さの中に
(提出歌)
  わが宇宙とて子規の愛せし庭に咲く百合桔梗鶏頭凌霄花の花
(添削後)
  わが宇宙と子規の愛せし庭に咲く百合・桔梗・鶏頭また凌霄花
(提出歌)
  暑かはしき庭の木立に鳴く蝉はおのが短き命を知るや
(添削後)
  暑き暑き庭の木立に鳴く蝉よおのが短き命を知るや
(提出歌)
  夏の庭の緑のなかに鶏頭の紅映ゆる一むらのあり
(添削後)
  子規庵の緑の中に鶏頭の紅もゆる一むらのあり
(提出歌)
  夏はつる雨のすくなき頃ほひは雄花のみ咲く棚の糸瓜は
(添削後)
  夏はつる雨のすくなき頃にして糸瓜棚には雄花のみ咲く
(提出歌)
  生前に子規の好める写真には蒲団より出でぬ姿映れり
(添削後)
  生前に子規の好みし写真にて蒲団より出でぬ姿映れり
(提出歌)
  天板のくりぬかれたる座机あり屈(かが)まり伸びぬ脚を入れむため
(添削後)
  天板のくりぬかれたる座机あり屈まりて伸びぬ脚を入るるため

解説
③の第三句は、「鳴く蝉よ」と呼びかけの方がよいと言われた。私は写生説に与する者ではないのだが、どうしても絵画のように、自分の目で見たシーンを、客観的に映像として定位しようとする傾向がある。短歌は感動の表現なのだから、もっと感情を込め、実感が伝わるように詠まなければならないと思った。
④は、初句「夏の庭の」が言わずもがなということを言われたが、確かに冗語であった。
子規には、「鶏頭の十四五本もありぬべし」という有名な俳句があるから、子規庵を詠んだ歌に、ぜひ鶏頭は入れておきたかった。
⑤は、結句「棚の糸瓜は」が収まりが悪いように感じていたが、先生に直していただいたように、「糸瓜棚」という言葉の方が落ち着く。

感想
今回は、②「わが宇宙と」・④「子規庵の」の歌に○があった。私も、この二首が気に入っていたので、表現をうまく整えていただいたことを含め、嬉しかった。
いつも先生は、添削をしながら、感想を言ったり、いろいろなお話をされるのだが、③の歌に関連して、
「蝉の命は短いというけれど、それは人間の感覚であって、蝉は単に自分の生を生きることを当たり前のこととして受けとめていると思う。人間は勝手に感情移入するけど、蝉にとってはどうかな? 余計なお世話だと言うかもしれないよ。」
と言って笑っておられた。また別の参加者の方が、
「蝉は土の中でけっこう楽しんでいるらしいよ。」
と言ったので、みんなで大笑いになった。
先生はその後も、正岡子規についていろいろお話しになり、和気藹藹とした雰囲気の中で、今回の講座は終了した。

歌学び、初学び (その十一)

2014-09-14 22:00:22 | 短歌
今月の「初心者短歌講座」は、5名が参加。そのうちのお一人は、見学希望という方だった。
前半の先生のお話は、斎藤茂吉の歌集『赤光』(大正2年)について。

今回、『赤光』から取り上げられたのは、次の十首。(便宜上、番号を振る。)

①ひた走るわが道暗ししんしんと堪(こら)へかねたるわが道くらし
②ほのぼのとおのれ光りてながれたる螢を殺すわが道くらし
③すべなきか螢をころす手のひらに光つぶれてせんすべはなし
④めん雞(どり)ら砂あび居(ゐ)たれひつそりと剃刀研人(かみそりとぎ)は過ぎ行きにけり
⑤たたかひは上海に起り居たりけり鳳仙花紅く散りゐたりけり
⑥吾妻(あづま)やまに雪かがやけばみちのくの我が母の国に汽車入りにけり
⑦雪の香の青くただよふ朝明(あさあけ)に堪(た)へがたければ母呼びにけり
⑧我が母よ死にたまひゆく我が母よ我(わ)を生まし乳(ち)足(た)らひし母よ
⑨星のゐる夜ぞらのもとに赤赤とははそはの母は燃えゆきにけり
⑩あな悲し観音堂に癲者(らいしや)ゐてただひたすらに銭欲(ほ)りにけり

先生の説明や感想のいくつかを、以下に紹介。

②で、茂吉がなぜ螢を殺すのかは分からないが、大正2年7月に師・伊藤左千夫が亡くなっていることと関係があるか(ただし、季節が合わないか)。①は、左千夫の死に際して詠まれた歌。「剃刀研人」が出てくる④もそうだが、茂吉の歌には異様な感覚を詠んだものが多い。
⑧普通、自分の肉親に敬語は使わないが、茂吉以降それを真似る人が増えたのは、私はどうかと思う。茂吉の連作「死にたまふ母」を名歌だという人もいるが、私からみれば大げさで、舞台の上で何かやっているようで、好きではない。
⑩昔は札所(ふだしょ)などによく癲病患者がいた。私の出身地の神島(こうしま。笠岡市)にはミニ八十八箇所があり、お遍路さんが多かったが、中には癲病患者もいた。黒いような包帯をし、鉦を馴らして遍路していたが、彼らから「おみや」(お土産)と称してお菓子をもらったりした。

茂吉の『赤光』については、来月に続きをするそうだ。
今回の講座の後半にあった、出詠歌とその添削については、また次回に取り上げる。