山鹿温泉を後にしまして天草へと向かいます。
ところが、天草方面へ向かう道はことごとく渋滞。
FM熊本のリスナー投稿に耳を傾けていると
「天草へ里帰りする途中ですが大渋滞してます!」
という内容が複数にわたって寄せられています。
地図に目をやると天草へ入る道は1本しか無いのね^^;
いろんな道を通ってきた人々が
一気にそこへ集中するから混む訳だ。
しかもお盆初日だったので
この日に上陸するのは大誤算。
が、宿をとってるので引き返す訳にはいきません。
辛抱強くノロノロ運転に甘んじました。
特製赤ウニ丼!
予定よりも2時間近く遅く到着。
天草ではそこそこ有名なお料理屋さんです。
天草は年中雲丹が捕れるらしいですが
赤雲丹は7~9月限定だそうです。
せっかくなので奮発して特製赤ウニ丼に。
九州の醤油に信頼を置いていないのもあって
マイ醤油持参で臨みましたが
既にご飯側へ甘い醤油が掛かってた。ショック。
雲丹は濃厚で磯の香り高く、非常に美味でした。
自然な甘さが十二分に味わえるので
甘露醤油は掛けて欲しくなかったなぁ。
練り山葵もうずら卵もいりません^^;
その後は少し観光しようと
二つのカテドラルを目指しました。
しかし…天草の土地勘が無い私は
日間賀島を一周するぐらいの軽い気持ちで
下島の天草海岸へ向かった訳ですが
とんでもない…めっちゃ遠い(T_T)
崎津教会
海の天主堂と呼ばれるように
漁港近くでひっそりと佇んでいます。
重厚なゴシック様式と説明がありましたが
内部から見るステンドグラスの様子は
ホッとするような温かみ溢れるもの。
床は畳敷きで日欧の文化が融合していますね。
明治以来3回に亘って立て直しされているそうですが
キリスト教禁教時代には
このような立派な教会は無く
隠れキリシタン達の拠り所として
人目を避けた造りだったんでしょう。
トウヤ
昔から生活と生業のために使用された路。
崎津は平地が少ないので海に「カケ」という
ベランダのような物を張り出して
そこに船を着けたり干物などを作ったそうです。
そして玄関は海側にあって、
対岸へは船で移動したそうですよ。
よって、トウヤは玄関から買い物などに出かける
生活道路として活躍したのでしょうね。
平成23年に国の重要文化的景観に選定されたそうです。
大江教会
崎津を出まして大江教会へ。
昭和8年に建てられたそうです。
崎津教会よりも明るい印象を受けます。
中にはシスターがいらっしゃって
祈りを捧げていらっしゃいました。
今回、天草を訪れることができたので
改めて島原の乱について調べましたところ
キリシタンの反乱的な要素よりも
年貢の重圧に耐えきれなくなった
農民達の一揆の要素が強かったんですね。
相次ぐ飢饉に見まわれるも重税は軽減されること無く
心の拠り所であるキリスト教も禁じられ…
カリスマ性のあった天草四郎は
16歳という年齢にも関わらず
総大将に担がれて命を落とした悲劇の主人公ですが
その裏には4万人近くの死者がいたとは。
重税の根本は大名が幕府に対し
石高を過大に算定して申告したことだというから
何とも皮肉かつ悲しい出来事です。
当時江戸城改築で幕府も台所事情が厳しく
大名もルソン島遠征や島原城の新築など
散財による年貢所望もあったのでしょう。
いつの時代も金や名誉に目がくらんだ権力者に
庶民は翻弄されて不満を訴えれば叩かれる…
歴史は繰り返されると言いますが
「昭和の後半と平成の半ばまでは
日本が一番いい時代でした」
と後の人々に懐古されないことを祈ります。
さて、宿に向かって車を走らせます。
つづく…
ところが、天草方面へ向かう道はことごとく渋滞。
FM熊本のリスナー投稿に耳を傾けていると
「天草へ里帰りする途中ですが大渋滞してます!」
という内容が複数にわたって寄せられています。
地図に目をやると天草へ入る道は1本しか無いのね^^;
いろんな道を通ってきた人々が
一気にそこへ集中するから混む訳だ。
しかもお盆初日だったので
この日に上陸するのは大誤算。
が、宿をとってるので引き返す訳にはいきません。
辛抱強くノロノロ運転に甘んじました。
特製赤ウニ丼!
予定よりも2時間近く遅く到着。
天草ではそこそこ有名なお料理屋さんです。
天草は年中雲丹が捕れるらしいですが
赤雲丹は7~9月限定だそうです。
せっかくなので奮発して特製赤ウニ丼に。
九州の醤油に信頼を置いていないのもあって
マイ醤油持参で臨みましたが
既にご飯側へ甘い醤油が掛かってた。ショック。
雲丹は濃厚で磯の香り高く、非常に美味でした。
自然な甘さが十二分に味わえるので
甘露醤油は掛けて欲しくなかったなぁ。
練り山葵もうずら卵もいりません^^;
その後は少し観光しようと
二つのカテドラルを目指しました。
しかし…天草の土地勘が無い私は
日間賀島を一周するぐらいの軽い気持ちで
下島の天草海岸へ向かった訳ですが
とんでもない…めっちゃ遠い(T_T)
崎津教会
海の天主堂と呼ばれるように
漁港近くでひっそりと佇んでいます。
重厚なゴシック様式と説明がありましたが
内部から見るステンドグラスの様子は
ホッとするような温かみ溢れるもの。
床は畳敷きで日欧の文化が融合していますね。
明治以来3回に亘って立て直しされているそうですが
キリスト教禁教時代には
このような立派な教会は無く
隠れキリシタン達の拠り所として
人目を避けた造りだったんでしょう。
トウヤ
昔から生活と生業のために使用された路。
崎津は平地が少ないので海に「カケ」という
ベランダのような物を張り出して
そこに船を着けたり干物などを作ったそうです。
そして玄関は海側にあって、
対岸へは船で移動したそうですよ。
よって、トウヤは玄関から買い物などに出かける
生活道路として活躍したのでしょうね。
平成23年に国の重要文化的景観に選定されたそうです。
大江教会
崎津を出まして大江教会へ。
昭和8年に建てられたそうです。
崎津教会よりも明るい印象を受けます。
中にはシスターがいらっしゃって
祈りを捧げていらっしゃいました。
今回、天草を訪れることができたので
改めて島原の乱について調べましたところ
キリシタンの反乱的な要素よりも
年貢の重圧に耐えきれなくなった
農民達の一揆の要素が強かったんですね。
相次ぐ飢饉に見まわれるも重税は軽減されること無く
心の拠り所であるキリスト教も禁じられ…
カリスマ性のあった天草四郎は
16歳という年齢にも関わらず
総大将に担がれて命を落とした悲劇の主人公ですが
その裏には4万人近くの死者がいたとは。
重税の根本は大名が幕府に対し
石高を過大に算定して申告したことだというから
何とも皮肉かつ悲しい出来事です。
当時江戸城改築で幕府も台所事情が厳しく
大名もルソン島遠征や島原城の新築など
散財による年貢所望もあったのでしょう。
いつの時代も金や名誉に目がくらんだ権力者に
庶民は翻弄されて不満を訴えれば叩かれる…
歴史は繰り返されると言いますが
「昭和の後半と平成の半ばまでは
日本が一番いい時代でした」
と後の人々に懐古されないことを祈ります。
さて、宿に向かって車を走らせます。
つづく…