陸奥月旦抄

茶絽主が気の付いた事、世情変化への感想、自省などを述べます。
登場人物の敬称を省略させて頂きます。

西岡武夫参議院議長の逝去を悼む

2011-11-06 22:31:11 | 国内政治:議会と政党
 菅・前政権を鋭く糾弾した西岡武夫参議院議長が病没した。享年75歳。参議院議長に就任して、1年4ヶ月を迎えていた。震災復旧の三次補正予算審議や、TPP問題など、重要案件が並ぶこの時期に、是々非々の姿勢を維持する西岡議長の急逝は、実に惜しまれる。心より、ご冥福を祈ります。

 西岡議長は、約10ヶ月前、「文藝春秋」2月号に『菅・仙谷には国を任せられない』との論考を発表して、菅内閣の国家観喪失を強く指摘していたことが印象に残る。民主党の中では、良識を持った国会議員であった。


西岡武夫参院議長が死去 長崎出身、75歳

 本県出身で初の参院議長となった西岡武夫(にしおか・たけお)氏(民主党比例代表選出)が5日午前2時24分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。75歳だった。長崎市出身。自宅は長崎市館内町5の16。通夜は6日午後7時から、葬儀・告別式は7日午後1時から長崎市茂里町3の31、法倫会館で。喪主は妻永子(ひさこ)さん。

 参院事務局によると、参院議長の在職中死亡は1949年の松平恒雄氏以来。

 西岡氏は昨年7月に参院議長に就任。国営諫早湾干拓事業の開門調査問題をめぐり菅直人前首相と対立。東日本大震災や福島第1原発事故をめぐる政権の対応を厳しく批判し、同じ民主党ながら菅氏退陣を公然と要求した。

 だが最近は体調を崩し、10月の臨時国会開会冒頭から参院本会議などを欠席。「口内の帯状疱疹(ほうしん)が十分に回復せず、発声が聞き取りづらい状態」と説明していた。関係者によると、都内の自宅で療養しながら復帰を目指していたが、体調悪化に伴い1週間ほど前に入院していた。

 政治家一家に生まれ、63年に27歳で衆院議員に初当選し、自民党入り。衆院議員11期、参院議員2期目。新自由クラブ幹事長、文相、自民党総務会長、新進党幹事長、参議院議院運営委員長などを歴任した。

 76年には、田中角栄氏の金権政治を批判して集団で自民党を離党し、新自由クラブを結成。いったん復党したが、93年に政治改革関連法案の成立に消極的な時の政権を批判し、再び自民党を離党。翌年、新進党結党に参画、98年には小沢一郎氏らと自由党を結成し、副党首に就任した。同年2月の長崎県知事選に出馬して敗れるなどしたが、参院選比例区で2001年、国政に復帰。自由党から民主党に合流した。

 政権交代後、諫早湾干拓事業の開門調査問題では、与党の検討委員会で多くの委員が「開門」を主張する中、絶対反対の姿勢を崩さず、昨年末には開門訴訟で5年間の常時開放を命じた福岡高裁判決の上告を断念した菅前首相を痛烈に批判した。参院の「1票の格差」是正に向けた選挙制度改革にも意欲を見せていた。8月の民主党代表選では小沢氏の要請を受け、一時、出馬の意志を固めるなど独自の存在感を示した。

http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji/20111106/01.shtml


 毎日新聞の岩見隆夫氏が、西岡参議院議長の逸話を語っている。

西岡参院議長死去:「ミスター一徹」を悼む
客員編集委員・岩見隆夫

 ◇評伝

 まさか、と耳を疑う訃報だった。もうひと花咲かすに違いない、それは多分、日本の政情不安に貴重な一石を投じることになるだろう、と確信に近いものを感じていたからである。

 民主党代表選(8月29日)の直後、西岡武夫参院議長から電話をもらった。小沢一郎元代表に代表選出馬を要請されて快諾、しかし、土壇場でつぶれた経過を細かく語ったあと、

 「自分だけでもやる気だったが、さすがにね、時間がなかった。次は命懸けでやりますよ」

 と意外な話である。政界最高位の議長から首相に転じた前例はないが西岡さんの声にはまったく迷いがない。実際はそうもいくまい、いや、先行き不透明な乱世だ、ひょっとして<西岡首相>もと考えたりしたが、とにかく西岡さんらしい、と思った。

 ひどく思い詰めているのも伝わってきた。40年を超える政治家生活がいつもそうだった。だが、今回は並でない。

 「西岡さん、これ書いてもいいの」

 「どうぞ、どうぞ、ハッハッハッハ……」

 と明るく笑って電話を切った。もうひと働きしてほしかったのに、と痛切に思う。

 1963年に初当選した時、母上のハルさん(元参院議員)と一緒に登院して、マスコミから「過保護だ」とからかわれたことがある。だが、のちに竹下登元首相が、

 「あれは西岡君一流の親孝行なんだ。彼は何事にも思い詰めるところがあったから」

 と語り、先輩の目にも思い詰め型と映っていた。

 そんな性癖、言動を政界は奇人変人扱いにしがちだった。しかし、私は全くそう思わない。右顧左眄(さべん)タイプが多いこの世界で、西岡さんはいつもいちずにきまじめに沈思し、答えが出たら行動に出た。数少ない貴重な資質である。

 西岡さんと長崎・海星中学の同級生で長い付き合いだった歌手の美輪明宏さんが、ある時、

 「彼の文部政務次官のころの横紙破りなところや、新自由クラブを作った荒々しさ、その新自クにさっさと三くだり半をつきつけ、古巣に戻ったあたりの決断力ときかん気の強さに、われながら拍手喝采を送ったものです」

 と旧友をほめたたえたことがあった。毒舌家の美輪さんにしては珍しいことで、

 「わたしはとにかく純粋な人間が好きなの」

 とも言っていた。ただ、新自クの時はいささか事情が違う。ロッキード政局のさなか、河野洋平さん(前衆院議長)ら6人衆が旗揚げを表明したのは76年6月25日だが、その朝、打ちそろってマスコミの前に並ぼうとしたが、西岡さんだけ行方がわからず、騒動になった。

 私も取材上、方々を探し回ったが、議員宿舎で布団をかぶって寝ていた。長崎の母上から思いとどまるよう朝まで説得されたらしい、ということだった。悩みの時もあったのだ。

 もう一つ、私の好きな話がある。早大雄弁会の幹事長を務めたころ、幹事会招集の張り紙を書くたび、西岡さんは新聞紙大の洋紙に、学生服の内ポケットから矢立てを取り出すと、毛筆でさらさらとしたためた。大きな字で、達筆だった。後輩が、

 「うまいもんですねえ」

 と声をかけると、

 「君ねえ、政治家というものは、筆ぐらい使いこなせなくちゃあだめなんだよ」

 とまじめな顔で答えたという。すでに政治家の気分でいたのだ。これも西岡さんらしい。

 ミスター一徹者の死が惜しい、と心底思う。
毎日新聞 2011年11月6日 東京朝刊
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20111106ddm002010108000c.html
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