普天間飛行場(宜野湾市)移転については、平成8年(1996)4月、自社さ・橋本政権が米クリントン政権と全面返還で基本的な合意を得た。その後、移転先としては、名護市辺野古のキャンプ・シュワブ基地へ海上ヘリポートを建設する案が出て、結局はV字型滑走路とすることになった。その実施が県議会の反対運動により、遅れたままで民主党連立政権に持ち越された。
日米安保体制の下で、両国首脳が合意した内容を白紙に戻すのは困難であろう。それをやれば、安保条約の存在にも影響が出る。日米安保条約を破棄あるいは解消する意図があるなら、その前に憲法改正を行って、独立した国家安全保障体制を構築しなければならぬ。
揺れ動く鳩山政権、いや民主党にその覚悟と具体的な安全保障政策があるのかどうかが最大の問題と思う。普天間問題を白紙に戻すことは、日米間の亀裂を拡大し、国防体制が不十分なまま、安保条約から離脱することに繋がる。
何度も言うが、これまで民主党は国家安全保障体制の基本的考え方を国民に明示していない。それ故、普天間問題に関して二転三転するのは当然で、沖縄県民の信頼を損なうのだ。
「民主党にだまされた」 沖縄県民に広がる鳩山政権不信
2009.11.29 22:08
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題で、鳩山政権の言動が二転三転し、方針を決まらないことに、沖縄県民の不信感が高まっている。「県民の心をもてあそぶことは許せない」「閣僚の一人や二人が首を差し出しても収拾がつかない」。こんな過激な声も出始めた。
普天間は琉球八社の一つ「普天満宮」の門前町として栄えた。15世紀半ば、熊野権現を合祀(ごうし)したものと伝えられ、熊野権現と琉球古神道神が祭神。境内は住民の憩いの場で、基地に囲まれた神社という緊張感はない。
だが、赤瓦屋根の社殿裏手の駐車場の金網越しには「キャンプ・フォスター」。そして普天間飛行場が続く。遠くで離着陸する戦闘機の爆音が響く。
日米両政府が、普天間飛行場返還で合意したのは平成8年。11年には名護市辺野古のキャンプ・シュワブ沿岸部に代替施設を建設することが閣議決定されたが、それから10年。計画は進まない。それどころか、民主党政権発足後は、鳩山由紀夫首相や閣僚の言動がぶれ、移設そのものを危ぶむ声が出始めた。
親子連れで参拝に来た40代男性は「どこでもいいから早く撤去してほしい。移設は衆院選前から決まっていたが、移設されないのではないかという不安も出ている。今の政府は一晩で言動が変わるから信用できない」と不満をぶつけた。
普天満宮近くの商店街でも同様の声が強い。
昭和30年から商店街に住んでいる80代女性はこう言って声を荒らげた。
「新聞で鳩山さんや閣僚の発言を読むたび、バカ野郎と怒鳴ってしまう。民主党にだまされた」。居合わせた40代の高校教諭も「ヤマトンチュ(大和人=本土側)は真剣に考えていないことがよく分かった。民主党も選挙の時は『早く撤去して危険を排除する』と言い張ってきたのに」。
70歳の男性も「いつ事故が起きるか不安で仕方がない。辺野古で決まったのだからそれでいいじゃないか」と、爆音をあげる戦闘機を見上げた。
県内の自治体首長経験者は「民主党は衆院選で『県外』を訴えたが、具体的な構想が全くなかったわけだ。あてもなく、ただ『県外』を強調し、反自民を印象づけることしか頭になかった。沖縄県民に過度な期待感を持たせた罪は大きい。沖縄はかわいそうだとか、口先だけの同情の声は出るが具体的な考えは全くない」と語った。
平成11年、辺野古への移設受け入れを表明した稲嶺恵一前知事は「当時、県外が望ましいが、その可能性がないとすれば、苦渋の選択をしなければならなかった。7カ所ぐらい候補地を上げたが、結局、辺野古しかなかった。早期に普天間から移すことが優先された」と辺野古移設案の経緯を話す。
前出の首長経験者は沖縄を活火山に例え、県民感情をこう代弁した。
「活火山は、普段は何でもない山だが、一度、穴を開けるとマグマが飛び出してくる。今の沖縄県民の感情はこのマグマに似ている。首相や岡田克也外相らが、勝手に無責任な発言をして、やたらと穴を開けてしまった。期待感を持たせて裏切られたときの反動は大きい」
首相は、民意尊重を錦の御旗(みはた)に、来年1月の名護市長選の結果を注視するという。市長選は、現職の島袋吉和氏(63)と普天間の県外移設をスローガンとする元市教育長の稲嶺進氏(64)との一騎打ちになる公算が大きいが、どちらにしても、禍根を残すのは必至だ。
自民党沖縄県連すら態度を変えた。27日の議員総会で、鳩山政権が年内に移設先の結論をまとめない場合は県内移設容認の姿勢を転換し、県外移設を求めていくことを確認。記者会見した翁長政俊幹事長(県議)は名護市長選で現行計画の是非が最大の争点になる見通しとなっていることを踏まえ「県民に責任を押しつける手法は無責任」と、政府に年内の決定を迫った。
64年前、沖縄地上戦で大きな犠牲者を出した沖縄県民に、再び、つらい選択を迫っていることに、民主党政権はまだ気づいていないようだ。
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091129/plc0911292214015-n1.htm
歴代自民党政権は、「吉田ドクトリン」(軽武装、経済重視)を墨守し、自主憲法制定という結党の精神を忘れて政・官・財体制維持に走り、国民の信を失った。その中で生まれた辺野古への移転計画は沖縄県民の負担を軽減する妥協の産物であった。
昭和20年(1945)6月13日、沖縄根拠地地司令官であった大田実海軍少将(死後中将昇進)が自決する際に海軍省へ送った玉砕決別文を思い出す。これは、男女を問わず、若い日本人が心に留め置いて欲しい(原文はカタカナである)。
沖縄県民斯く戦えり
発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
左の電文を次官に御通報方取り計らいを得たし
沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告せらるべきも、県には既に通信力なく、32軍司令部また通信の余力なしと認めらるるに付き、本職、県知事の依頼を受けたるに非ざれども、現状を看過するに忍びず、これに代わって緊急御通知申し上げる。
沖縄島に敵攻略を開始以来、陸海軍方面、防衛戦闘に専念し、県民に関しては殆ど顧みるに暇(いとま)なかりき。
然れども、本職の知れる範囲に於いては、県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残る老幼婦女子のみが、相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、僅(わず)かに身を以って軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難、尚、砲爆撃下□□□風雨に曝されつつ、乏しき生活に甘んじありたり。
しかも若き婦人は、率先軍に身を捧げ、看護婦烹炊(ほうすい)婦はもとより、砲弾運び、挺身斬り込み隊すら申し出る者あり。
所詮、敵来たりなば、老人子供は殺されるべく、婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて、親子生き別れ、娘を軍衛門に捨つる親あり。
看護婦に至りては、軍移動に際し、衛生兵既に出発し、身寄り無き重傷者を助けて□□、真面目にして、一時の感情に駆られたるものとは思われず。
さらに、軍に於いて作戦の大転換あるや、自給自足、夜の中に遥かに遠隔地方の住民地区を指定せられ、輸送力皆無の者、黙々として雨中を移動するあり。
これを要するに、陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫、勤労奉仕、物資節約を強要せられつつ(一部はとかくの悪評なきにしもあらざるも)ひたすら日本人としての御奉公の護を胸に抱きつつ、遂に□□□□与え□ことなくして、本戦闘の末期と沖縄島は実情形□□□□□□一木一草焦土と化せん。糧食6月一杯を支うるのみなりという。沖縄県民斯く戦えり。
県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。
敗戦後64年、私たち日本人は沖縄県民にどの様な配慮をしたのであろう。昭和47年(1972)5月、沖縄を米国から取り戻したものの、米軍基地の7割を沖縄へ押し付けた。そして、昨今は沖縄へ一千万人外国人移住計画を主張する売国国会議員も現れている。
沖縄の米軍基地問題については、憲法改正を行い、継いで日米安保条約再締結をするしか根本的方法は無いことを民主党は知るべきだ。
日米安保体制の下で、両国首脳が合意した内容を白紙に戻すのは困難であろう。それをやれば、安保条約の存在にも影響が出る。日米安保条約を破棄あるいは解消する意図があるなら、その前に憲法改正を行って、独立した国家安全保障体制を構築しなければならぬ。
揺れ動く鳩山政権、いや民主党にその覚悟と具体的な安全保障政策があるのかどうかが最大の問題と思う。普天間問題を白紙に戻すことは、日米間の亀裂を拡大し、国防体制が不十分なまま、安保条約から離脱することに繋がる。
何度も言うが、これまで民主党は国家安全保障体制の基本的考え方を国民に明示していない。それ故、普天間問題に関して二転三転するのは当然で、沖縄県民の信頼を損なうのだ。
「民主党にだまされた」 沖縄県民に広がる鳩山政権不信
2009.11.29 22:08
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題で、鳩山政権の言動が二転三転し、方針を決まらないことに、沖縄県民の不信感が高まっている。「県民の心をもてあそぶことは許せない」「閣僚の一人や二人が首を差し出しても収拾がつかない」。こんな過激な声も出始めた。
普天間は琉球八社の一つ「普天満宮」の門前町として栄えた。15世紀半ば、熊野権現を合祀(ごうし)したものと伝えられ、熊野権現と琉球古神道神が祭神。境内は住民の憩いの場で、基地に囲まれた神社という緊張感はない。
だが、赤瓦屋根の社殿裏手の駐車場の金網越しには「キャンプ・フォスター」。そして普天間飛行場が続く。遠くで離着陸する戦闘機の爆音が響く。
日米両政府が、普天間飛行場返還で合意したのは平成8年。11年には名護市辺野古のキャンプ・シュワブ沿岸部に代替施設を建設することが閣議決定されたが、それから10年。計画は進まない。それどころか、民主党政権発足後は、鳩山由紀夫首相や閣僚の言動がぶれ、移設そのものを危ぶむ声が出始めた。
親子連れで参拝に来た40代男性は「どこでもいいから早く撤去してほしい。移設は衆院選前から決まっていたが、移設されないのではないかという不安も出ている。今の政府は一晩で言動が変わるから信用できない」と不満をぶつけた。
普天満宮近くの商店街でも同様の声が強い。
昭和30年から商店街に住んでいる80代女性はこう言って声を荒らげた。
「新聞で鳩山さんや閣僚の発言を読むたび、バカ野郎と怒鳴ってしまう。民主党にだまされた」。居合わせた40代の高校教諭も「ヤマトンチュ(大和人=本土側)は真剣に考えていないことがよく分かった。民主党も選挙の時は『早く撤去して危険を排除する』と言い張ってきたのに」。
70歳の男性も「いつ事故が起きるか不安で仕方がない。辺野古で決まったのだからそれでいいじゃないか」と、爆音をあげる戦闘機を見上げた。
県内の自治体首長経験者は「民主党は衆院選で『県外』を訴えたが、具体的な構想が全くなかったわけだ。あてもなく、ただ『県外』を強調し、反自民を印象づけることしか頭になかった。沖縄県民に過度な期待感を持たせた罪は大きい。沖縄はかわいそうだとか、口先だけの同情の声は出るが具体的な考えは全くない」と語った。
平成11年、辺野古への移設受け入れを表明した稲嶺恵一前知事は「当時、県外が望ましいが、その可能性がないとすれば、苦渋の選択をしなければならなかった。7カ所ぐらい候補地を上げたが、結局、辺野古しかなかった。早期に普天間から移すことが優先された」と辺野古移設案の経緯を話す。
前出の首長経験者は沖縄を活火山に例え、県民感情をこう代弁した。
「活火山は、普段は何でもない山だが、一度、穴を開けるとマグマが飛び出してくる。今の沖縄県民の感情はこのマグマに似ている。首相や岡田克也外相らが、勝手に無責任な発言をして、やたらと穴を開けてしまった。期待感を持たせて裏切られたときの反動は大きい」
首相は、民意尊重を錦の御旗(みはた)に、来年1月の名護市長選の結果を注視するという。市長選は、現職の島袋吉和氏(63)と普天間の県外移設をスローガンとする元市教育長の稲嶺進氏(64)との一騎打ちになる公算が大きいが、どちらにしても、禍根を残すのは必至だ。
自民党沖縄県連すら態度を変えた。27日の議員総会で、鳩山政権が年内に移設先の結論をまとめない場合は県内移設容認の姿勢を転換し、県外移設を求めていくことを確認。記者会見した翁長政俊幹事長(県議)は名護市長選で現行計画の是非が最大の争点になる見通しとなっていることを踏まえ「県民に責任を押しつける手法は無責任」と、政府に年内の決定を迫った。
64年前、沖縄地上戦で大きな犠牲者を出した沖縄県民に、再び、つらい選択を迫っていることに、民主党政権はまだ気づいていないようだ。
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091129/plc0911292214015-n1.htm
歴代自民党政権は、「吉田ドクトリン」(軽武装、経済重視)を墨守し、自主憲法制定という結党の精神を忘れて政・官・財体制維持に走り、国民の信を失った。その中で生まれた辺野古への移転計画は沖縄県民の負担を軽減する妥協の産物であった。
昭和20年(1945)6月13日、沖縄根拠地地司令官であった大田実海軍少将(死後中将昇進)が自決する際に海軍省へ送った玉砕決別文を思い出す。これは、男女を問わず、若い日本人が心に留め置いて欲しい(原文はカタカナである)。
沖縄県民斯く戦えり
発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
左の電文を次官に御通報方取り計らいを得たし
沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告せらるべきも、県には既に通信力なく、32軍司令部また通信の余力なしと認めらるるに付き、本職、県知事の依頼を受けたるに非ざれども、現状を看過するに忍びず、これに代わって緊急御通知申し上げる。
沖縄島に敵攻略を開始以来、陸海軍方面、防衛戦闘に専念し、県民に関しては殆ど顧みるに暇(いとま)なかりき。
然れども、本職の知れる範囲に於いては、県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残る老幼婦女子のみが、相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、僅(わず)かに身を以って軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難、尚、砲爆撃下□□□風雨に曝されつつ、乏しき生活に甘んじありたり。
しかも若き婦人は、率先軍に身を捧げ、看護婦烹炊(ほうすい)婦はもとより、砲弾運び、挺身斬り込み隊すら申し出る者あり。
所詮、敵来たりなば、老人子供は殺されるべく、婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて、親子生き別れ、娘を軍衛門に捨つる親あり。
看護婦に至りては、軍移動に際し、衛生兵既に出発し、身寄り無き重傷者を助けて□□、真面目にして、一時の感情に駆られたるものとは思われず。
さらに、軍に於いて作戦の大転換あるや、自給自足、夜の中に遥かに遠隔地方の住民地区を指定せられ、輸送力皆無の者、黙々として雨中を移動するあり。
これを要するに、陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫、勤労奉仕、物資節約を強要せられつつ(一部はとかくの悪評なきにしもあらざるも)ひたすら日本人としての御奉公の護を胸に抱きつつ、遂に□□□□与え□ことなくして、本戦闘の末期と沖縄島は実情形□□□□□□一木一草焦土と化せん。糧食6月一杯を支うるのみなりという。沖縄県民斯く戦えり。
県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。
敗戦後64年、私たち日本人は沖縄県民にどの様な配慮をしたのであろう。昭和47年(1972)5月、沖縄を米国から取り戻したものの、米軍基地の7割を沖縄へ押し付けた。そして、昨今は沖縄へ一千万人外国人移住計画を主張する売国国会議員も現れている。
沖縄の米軍基地問題については、憲法改正を行い、継いで日米安保条約再締結をするしか根本的方法は無いことを民主党は知るべきだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます