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まちみちふうけい

間もなく10年目も通過点

No.653 各駅巡り・南海高野線(住吉東駅)

2017-01-18 08:25:18 | 南海
おはようございます。










南海高野線各駅巡り、再開編は前回汐見橋から岸里玉出まで、大阪市内の下町と言った所を走りました。高野線は岸玉(とよく言っていた)で本線を飛び越すようにクロスして堺東方面へ向かうが、両方の線は線路がつながっていないので直通はしていない。難波から複々線の高架を走ってきた電車はここから本線と分かれて堺東方面へと向かう、高架駅にあるはず岸玉駅のホームだが駅を過ぎると特に下りにはなってないのにいつの間にか地上を走っている。タモリ氏が好みそうな高低差のトリックみたいなものだが、阪堺線が走っている辺りが低地だとすれば、その東側にある帝塚山界隈はそこから結構な上り坂となってから高台へと入っていく、線路は岸玉駅のホームを出た辺りでもうその高台に入っているので地上を走っているように感じるのである。線路はほとんど高低差もなく進み次の帝塚山駅へとたどり着く、学生さんの乗り降りが多い駅だがホームは狭く、何本もの電車が通過して行くので気をつけなければいけない所、ホームの高さが壁の向こうの道路とほとんど変わらないのもこの駅の特色のひとつである。









学生さんが多いと書いたがそれもそのはず、駅の目の前にあるのが帝塚山学院の校舎、複線の線路は校舎や住宅地のひしめく中を所狭しと抜けて行っている。駅周辺は瀟洒な住宅地と言った感じ、いかにも裕福な家庭が多いように感じてしまうのは貧乏人の悲しい性とでも言ったところか、前の朝ドラ『ふたりっ子』で双子の姉の麗子が天下茶屋の豆腐屋の娘だと言われるのが嫌で帝塚山のお嬢様だと嘘をついていたが、高台にある町には一種のコンプレックスを感じさせられてしまう魔力でもあるのだろうか。思えばこの界隈を並行して走っている阪堺電鉄も帝塚山付近の上町線は電車が頻繁に走っているのに、下町を走る阪堺線は本数が減らされてしまった、どうしても差をつけられてしまうように考えてしまうのは・・・やっぱり貧乏人の悲しい性でしょうかねえ。








帝塚山駅を後に線路に近い所にある住宅地の中を進んで行く、車が通るのも遠慮がいるくらいに狭くて静かな道、知らない人間が自転車で走っていたら即不審者にでも思われないかと言う感じである。高級住宅地の落ち着いた雰囲気の中を進んで次の駅に向かう途中には、写真1枚目にある文化財っぽい家屋や社員2枚目にある古い家屋を再利用したゲストハウスなど目を引く風景を見ることもできる。高野線の次の駅、住吉東駅に近い所で高架になっている阪堺上町線の神ノ木駅の下をくぐる、二つの駅は徒歩で5分くらいの所にあり一応乗換駅として車内アナウンスもされている・・・今はどうか知らないが。この阪堺電鉄上町線は帝塚山付近は道路との併用区間を通って来るが、その道が熊野街道に当たる道、その熊野街道は高野線の線路を東から西へと渡って住吉東駅の西側を通っていて、その辺りは旧街道の雰囲気が漂う町並となっている。ちょうど場所的に住吉大社の裏手に当たり、住吉東駅からの参拝客もいるので人の通りも結構賑やかな所である、往時は熊野街道からの参拝客もいただろうことで、その賑わいは現代に引き継がれてきているのだろう。






さてさて、各駅巡りなので住吉東駅も紹介しておかなければなりません、と言うわけで上の3枚の写真が駅の風景。駅舎は簡素で悪い意味で言えば風通しがいい感じ、ホームは2面の対面式だが線路は4本あり真ん中の2本は通過線となっている。高野線系統では難波を出て初めての、そして難波~堺東間では唯一の急行待避駅、この微妙な場所での急行待避が高野線の弱点でもある。難波からは住吉東までは結構距離があるので、朝のラッシュ時の上り各停はこの駅を出ると難波まで追いかけてくる急行に逃げ切ることができなくなってしまう。高野線は完全なる通勤路線で朝ラッシュ時の急行、準急はもう飽和状態、そんな中を走る各停はどうしても割を喰らってしまい堺東で待避した後はこの駅での待避となるが、時には3本待避になることも、各停だからと言ってもさすがに3本も急行を待避するのは何か、何かなあ~って思ってしまう。難波~住吉東間でもう一駅急行待避駅を造ればいいと、川島令三氏みたいに無茶なことを簡単に言ってしまってもそれはもう到底かなわない話、結局今はこのままで、この先もこのままでと言うことになってしまうのだろう。南海にしてみればこの辺りは地下鉄御堂筋線の駅も遠いし、並行する本線も遠いけど乗ってもらえればそれはそれでありがたいと言う感じで、こんな状態でも客は我慢してくれるだろうとお高くとまってらっしゃるのだろう。どうしても電鉄とすれば遠方のお客様をより早く都心に運ぶことを優先してしまうだろうから、この区間で各停で割を喰らってしまうことはもう仕方ないことだろう。
と言うことで、今回の各駅巡りはたった二駅だけの紹介となってしまいました。自分(一人称)も南海高野線とは長いお付き合いだったのでこの路線に関してはいいことも悪い事もよく知っているつもりです。各駅巡りに関しては次回ここから堺東までの区間を紹介して一段落となると思いますが、南海にはいろいろな思い出も言いたいことも(個人的にだから言っても仕方ないことなのですが)あるので、まだまだテーマ『南海』としてお伝えしていきたいと思います。今回はここまでとしておきましょう、次回もお付き合いよろしくお願いします。        まちみち







No.652 滋賀の旅秋編(2)・栗東市

2017-01-16 11:06:13 | 旅行記
おはようございます。












滋賀の旅秋編、前回は草津宿を後にして栗東市に入った所まで来ました。栗東と言うとトレセンを思い出すのですが、JR東海道本線にも栗東駅があるように南北に長い市域であり東海道新幹線も旧東海道も通っています、今回はその東海道をたどって行ってみようと思います。
草津市と栗東市の市境を通り過ぎ東海道新幹線の高架の下を過ぎると川の手前で道がカーブしている写真1枚目の場所へとたどり着く。曲がり角の一角に立っている旗には東海道の文字、その道は向かって左側へとカーブした方へと続いていく、旧街道の雰囲気が漂う町並が続く所、その後の写真にあるように通り過ぎる家々にはここが元は田楽の店だったと言うことを示す屋号が彫られた碑が立っている。その先にはここが田楽の発祥の地であると言う碑、自分(一人称)は食には興味はないので田楽と言われてもはっきりとしたイメージが浮かばないが、おでんの先駆けみたいなもんですか、合ってる?











旧東海道はこの先直線が続き、素朴ながらもどことなく旧街道の雰囲気を漂わせた町並の中を静かに通り過ぎて行く。この辺りは鉄道からも国道からも離れていて少し寂しい雰囲気な所だが、それもまた旧街道らしくていいところだろう。写真2枚目~4枚目、何とも趣のある家屋、軒には瓢箪が吊るされ家の前には張り子の牛が2頭、看板には「目川農業」の文字、ここは草津宿と石部宿の中間点に当たり宿場間の距離が長いので旅人の休憩地となる場所で、旅の必需品となる物をいろいろと売っていた店もあったとのこと。軒に吊るされた瓢箪はこの地で主に作られていたとのことで、農家の副業的な産物だと言うことである。旧街道巡りは往時の宿場町の賑やかな雰囲気や町並の造りを見ながら通り過ぎて行くのもいいが、こうした宿場町間の何気ない風景の中に当時の暮しを想像しながら垣間見て進んで行くのもまた乙哉、特に観光のために手を加えているわけでもなく普通にありのままにその風景を残しているのがこの辺りのいい所である。










旧東海道はやがて国道1号線の近く、少し賑やかな所へと差し掛かり車の数も多くなってくる。道は国道1号線に近い所を通るが合流することはなく、写真1枚目の町並の中を過ぎてJR手原駅近くへとたどり着く。道の隅には写真2枚目にある東経136度線がここを通っていると言う碑が密やかに立っているが、その奥がJR手原駅で、駅前には同じように東経136度線が通っていると言う表示が大きなモニュメントとなって立っている。子午線というと東経135度線を思い出すが、南北を通っている線だからこの線も子午線と言うのか、でも子午線と言うのは日本独特の言い方になるはずだよなあ、子(ねずみ=北)と午(うま=南)のことだから、十二支の話となると奥が深くなりそうなのでこれについてはまた別の機会に置いといて・・・。
さて、手原駅前を過ぎるとまだまだ東海道は旧街道の雰囲気が漂う町並の中を進んで行くことになる、そう言えばはるか前に草津宿を出たのにまだ次の宿場町にはたどり着いていない。滋賀の旅秋編は先を急ぎたいところなのに、どうもこの風景には心惹かれてしまうと言うのか、走ってはすぐに止まって写真を撮るの繰り返し、このままでは目標の伊賀上野までたどり着けるのかどうか?日帰りとは言ってもまだまだ続く話ですが、この先もお付き合い、どうぞよろしくお願いします。         まちみち

No.651 上立売通

2017-01-15 19:10:43 | みち
おはようございます。













前に中立売通を走って北野町界隈まで来た話をお送りしましたが、今回はその続きとなる走りの模様をお伝えしていこうと思います。もう去年の7月頃の話だったのですが、お送りが今頃となってしまいました、早く蔵から出してくれ~、てな感じでずっと置いてあった件だったのですが、そろそろ日の目を見せてあげることとして、まずは北野天満宮界隈からスタートしようと思います。
中立売通は途中から向きを斜めに変えて北野町へと差し掛かり一条通と交差しますが、その行き着いた所が今出川通にある北野天満宮前交差点、ここからは天満宮には寄らずにその横を沿う道へと入って行きます。通りを少し進むと神社の東側の入口となる所があり、その一角には写真2枚目にある「上七軒」の碑が立っている、いかにも京都の町らしい響きのする町の名前だが、その町は南側から合流してきた通りにあるようだ、と言うことでここで折り返して南側にある細い道へと入って行く。写真3枚目以降にある町並を見て分かるとおり、ここは花街で自分(一人称)にはほとんど縁のない所、まあ通り過ぎるだけならいいでしょう、町並の一角には歌舞練場もあって舞妓さんを見ることできるかなと思ったが、それは叶わなかった。









さて、この後は今回の本題となる上立売通を進んで行くことにする、と言っても道は地図上では目立たない、町中の入り組んだ所を通っているので、まずは一番近くの大きな通りである千本通へと出て、そこから交差点名を確かめて上立売通へと入って行く。上の写真にあるとおり、狭い道に普通の民家が両脇を狭めるようにして軒を為している、主に普通に人々が生活を送っている所を通って行くが、派手な観光地の風景も京都の見所なら、この風景もまた京都の見所のひとつかも知れない。写真4枚目は京都市の選定する歴史的意匠建造物である民家、5枚目にある町名表示の看板、その古さと京都独特の町名、それを表記している文字の形もいかにもこの町らしい雰囲気、狭い通りを走っていて見かける何気ない風景もまた京都と言う町が見せてくれる一面である。










写真は堀川通付近、この辺りも西陣と言われる辺り。前回の中立売通を走った時の西陣は織物の街であることを中心に紹介したと思うが、ここでの西陣は歴史的な背景からの紹介となります。その背景とは「応仁の乱」、1467年(いよいよむなしい、と覚えました)から約10年も続いた内乱で、この戦のせいで京の街は廃れ、室町幕府は崩壊し、時は戦国時代へと入って行く歴史的にも重要な分岐点となる出来事である。上の写真に出てくる山名宗全と言う名前の武将がその乱の中心的な人物で、その山名宗全が陣を構えたのがこの辺り、今で言う西陣と言う所である。室町時代と言うとドラマやドキュメント番組でもそれほど取り上げられることがなくいまいちよく分からない時代のイメージ、自分(一人称)が名前を知っていると言っても足利義満、義政くらいである。足利義満と言うと『一休さん』で知られているが、全般的には将軍家には何やかんやがあって・・・いや、その何やかんやが大事な話でしょう、何やかんやって何なんですか・・・何やかんやは何やかんやです!!



まあ、よく分からないと言うことです、どうもこの時代のことはよく分かりません、何かいろいろとややこしい感じがするので調べる気にもなりません。まあ大河で取り上げられることでもあったら興味も出てくるんやろうけど、2020年まではラインナップが決まってますからねえ。いずれにしても京都の風流を感じる「西陣」と言う地名が、歴史の暗い部分を背負ったところから生まれた名前だと言うことには違いないようです。
堀川通を過ぎると、あれ、ここはどこかで見たことある風景と思ったらそこは前に新町通を走った時に通った所、同志社大学新町キャンパスがある所である。ここを抜けるともうすぐに烏丸通、上立売通はこの先烏丸通の横断歩道を渡った先を真っ直ぐ進んだ所にある寺院で途絶えてしまう。その右手側にあるのが同志社大学、花街から始まった上立売通の走りは普通の生活の雰囲気を感じる場所、歴史の混乱の舞台となった場所と経て、最後は学生さんが多く行き交う場所での終わりとなりました。さて、今回はここまでとしておきましょう、次回もお付き合いよろしくお願いします。        まちみち





No.650 初瀬街道、赤目口駅付近

2017-01-13 11:15:18 | みち
おはようございます。









名張から奈良方面へと初瀬街道を巡る走り、前回は名張市内の中心地をいろいろと巡りました。名張市と言うと三重県では県北部の西に位置し、伊賀上野を中心とする伊賀市と比べると知名度は低い感じ、三重県内の中心となる津、四日市とは離れている分、奈良や大阪へ向かう方が便利なイメージもあって、文化の向きは関西の方にあるような感じ、何なら奈良県に鞍替えしてきてもらってもいいですよ、ってそれはないか。テレビ放送は関西圏のはもちろんのこと、三重県と言うことなので東海地方の放送も見ることができるらしい、ただイメージとして中日ドラゴンズファンは少ない感じ、って言うか中日ファンって全国的に少ないか。



初瀬街道は名張市内を東西に貫いていて、道は中心地の部分では旧街道によくある直角の曲がりをいくつか繰り返して町の外れへと差し掛かってくる。上の写真にある道標はその町の終わり部分に立つものだが、その古さや威圧感からして結構歴史の重さを感じることができる。前回お送りした町中にあった道標も往時のものがそのまま残されているようで、古いものを大事に残していくことに心掛けているんだなあという、いいイメージのある町でもあります。






名張の市街地を出て田園風景の中を走って行く、目の前には山が連なっていて、奈良県に入るにはその山を抜けて行かなければならない。そのメインルートとなるのが国道165号線、初瀬街道はその国道を交差して南側、近鉄大阪線の近くを沿って走る。しばらく走ると集落に入って近鉄赤目口駅の近くへとたどり着く。駅へ行ってみようと近鉄の線路をたどって行くと、駅が近くにありそうな雰囲気はあるものの、それがなかなか見つからない。線路の下をくぐってカーブになった上り坂を過ぎると写真1枚目にある近鉄赤目口駅の駅舎があった、自分(一人称)は前に一度この駅から輪行したことがあったが、その時は反対側(北側)に駅舎があった・・・との記憶があったんだが、あれ、記憶違いだったかな。









再び初瀬街道に戻り奈良方面へと進んで行く、近鉄の方は赤目口駅を出ると次はもう奈良県へと入ってしまう、こちらも奈良はもう近いものだと言う気持ちで走っているが、さすがに電車と自転車では違う、三重県内とはもう少しのお付き合いだ。道は旧街道の雰囲気が漂う家屋が建ち並びなかなか趣深い、宿場町ではなかったんだろうが家屋の古さはまさに時代の流れを感じることができるようである。往時大阪から伊勢参りに向かう人がこの道を通ったと言うことだろうが、桜井を過ぎると後は伊勢の手前まで山、山、山の連続、名張付近はそんないくつかの山越えを終えて久しぶりに迎える平地となる所、この地はその入口となるので、旅人の疲れた足や気持ちを和ませることとなったのだろう。しかし名張を過ぎたらまた山越えの連続、しかもこの先には青山の難関も待っている、そこに望むべく気持ちを新たに切り替えるための場所でもあったのだろうか。今は近鉄特急で大阪から伊勢まで2時間もあれば着けてしまう、往時は旅人がいろいろな思いを馳せたであろう名張の町並も今はただの見向きもされない通過点になってしまっている。







町並も終わり、石橋を渡ると風景が開けて田んぼの中の道を進んで行くこととなる、山が近いのでそちらから吹いてくる風が冷たい、遮るものもないので自転車で走るには少し辛いところだ。道は名張川の橋を渡り三重県内で最後の集落となる所へ、川に沿った狭い道だがコミュニティバスも走っている、本数は少ないが近所に駅はなく町の中心地から離れた所でもあるので、バスは地元の人の重要な足と言うことになるのだろう。やがて道はここから右側一段高くなった所を通っている国道165号線とこの先で合流、名張川に沿って国道は緩やかなカーブを繰り返しながら山と山の間をすり抜けて行く。間もなく奈良県との県境、横には近鉄線も走っていて、近鉄電車がカーブに苦しめられている車の流れをまるで相手にもしない様子で走り過ぎ去って行く。相棒との走りもこの辺りは道が狭くてカーブも連続していて気をつけて行かなければならない所、慎重に慎重を重ねて走って行ってやがて奈良県内へと入って行く、県境ではあるが道は割と平坦で簡単に越えることができる。県境を越えるとすぐに旧初瀬街道であろう細い道が国道から分かれている、さあ、いよいよここからは奈良県内での走り、室生から榛原、大宇陀へと向けて気持ちも新たに進んで行く話は、また次の機会と言うことにしておきましょう。そんなわけで次回もお付き合いよろしくお願いします。         まちみち

No.649 平城京巡り、八条大路

2017-01-12 09:05:25 | チョイ走
おはようございます。










平城京の南端は羅城門がある九条大路なのですが、近年は十条大路の存在も明らかになりまだまだその件については謎が多そうな様子です。九条大路は現在では県道754号線と国道24号線、更に大和郡山市街地を結ぶ主要道路となっていて面白みのない風景が続く所です。今回はその1本北側を通る八条大路を紹介していくのですが、なぜかこの道が通る所は東九条、西九条、九条駅など九条と言う地名を名乗っています、なぜなんでしょう・・・って別にそれを検証していくわけではなく、いつもどおり八条大路がこんな風景だと紹介していくだけのコーナーです。まずはいつもの地図で八条大路がどこなのかを確認しておきましょう。



写真1枚目、神殿と書いて「KODONO」と読む交差点から西へと入って行くのが県道41号線、県道と言っても道は車が擦れ違うのも難しいくらいの狭さで、民家が両脇を取り囲む様に軒を為している。写真3枚目が前にもお伝えしたことがある東三坊大路との交点、ここを過ぎた辺りから道の北側の広い範囲と南側の一部の区画には上の地図にある東市があったと思われる。そしてその先には最後の写真にある辰市村の道路元標、東市のあった場所に辰市という名の地名、ちょっと興味をひかれたのでまたまたカジリ程度、いっちょかみ程度に調べてみました。この件についてはまた機会を設けてお送りしてみようと思っています。










写真1枚目は東二坊大路との交点、手前のマンションの前にはお地蔵様が並んでいる、更に進んで写真4枚目が東一坊大路との交点、この付近は堀に囲まれた古い町並を見ることができる。八条大路を少し逸れた所に狭い道があり、そこに大きなバスが写真5枚目、6枚目にある杏南町バス停へと入ってくる、ここは以前は近鉄奈良駅からやって来るバスの終点だったが、近くにイオンモール大和郡山店ができてそちらが終点となったため途中の停留所となってしまった。バスは元の八条大路と九条大路の間路だった所が今は広い道となっていてそこを経由して来るが、一端狭い通りに入って更に車もすれ違えないほどの狭い道へと曲がって杏南町バス停へとたどり着く。イオンに向かいたい人からすると少し遠回りになってしまうが、こんな不便な所でも廃止せずにバス停を残してくれる辺りはさすがに良心の塊のような奈良交通です。







八条大路へと戻って国道24号線の通る所が杏交差点、『ごちそうさん』みたいな地名だが「KARAMOMO」と読む。ちなみにこの交差点の北側の国道24号線、JR線を越える橋が八条跨線橋、九条の地名に囲まれた所でやっと目にする「八条」であるが、この地名があるのは八条大路の北側で六条大路、七条大路が通る辺りなので、この八条は今ここでお送りしている八条大路とはほとんど無関係と言う感じである。
杏交差点を越えると景色が開けて佐保川を渡る、この辺りが朱雀大路が交わっていた所だと思われるが、その朱雀大路は今はもう跡形も痕跡もなくなってしまっていて、ただの殺風景な風景が広がるばかりである。更に進んでJR大和路線の踏切を渡って、やがて奈良口交差点、ここが西一坊大路との交点となる。この辺りは佐保川から分岐した秋篠川が横を沿って流れていて、交差点を過ぎた所からは自転車道となっていて、秋篠川に架かる小さな橋を渡ったすぐの所には船着き場跡、そしてもう少し進むと西市の碑が立つ場所へとたどり着く。朱雀大路を挟んで東西に市があったこの辺り、往時は買い物客の行き来で賑わったことだろう、この付近では平城京の時代に使用された貨幣が多く発見されているが、そのことはこの付近に市があったことと大いに関係していることだろう、誰かが落としたお金だったのかも知れない。








西市跡からすぐの所にあるのが近鉄九条駅、やっぱり「九条」なんやなあ、ホントは八条なのに・・・とは言っても平城京に興味のない人にとってはここは九条だと言うのはもう当たり前のことだろう。この駅付近が西二坊大路との交点、道は駅前から伸びる狭い道だが、ここは本来の八条大路とは少しずれた位置であり、道は緩やかに上り坂になってニュータウン風の民家が建ち並ぶ小高い所へとたどり着く。タモリ氏が大好きな高低差のある場所だが、もうこの辺りは碁盤の目のような道はなくなっていて、ここが平城京の西の端だったと言う痕跡はまったくうかがうことはできない、もちろん西三坊、西四坊大路の跡も全くどこか分からないほど・・・と思ったら、到底都の雰囲気も感じられない住宅地の一角に最後の写真にある西四坊大路跡の新しく作られた碑が立っている。何かこれを見ただけでも救われるような気がしました、この付近に住んでいる人はほとんど興味を示さないような小さな碑だが、ここが確かに奈良に都があったことを示しているわけだから。
と言うことで今回は八条大路をお送りしてきたわけですが、東市西市、地名を巡る興味は尽きないところ、この道は普段から通っている道でもう見慣れたと言うか見飽きた風景ばかりですが、少し突っ込んで見ればまた新しい一面も見えてきます。この件についてはさっきも書きましたがもう少し突っ込んで別枠にてお送りしてみようと思います。そんなわけで次回もお付き合いよろしくお願いします。       まちみち