おはようございます。
今回はこの間お送りした藤原京巡りの後編をお送りしていきます、間を置くとまた忘れてしまうかも知れないんで。藤原京は平城京時代の前にあった日本で初めての条坊制の都、しかしここが政治の中枢であったのはわずか16年間だけだったとのこと、しかも宮都の完成も次の平城遷都の数年前と言うことで都としてあった時期はほんのわずかだったことになる、この都が置かれる前が聖徳太子から蘇我氏、大化の改新と大きく時代が動いた時期、後は平城京で華やかな奈良時代に入る時期なのであまり歴史的にもあまり前面に出ることがない時代と言ったところか。
その政治の中枢となった藤原宮跡は大和三山と明日香の地域にちょうど四方を囲まれるようにしてある、宮跡と言っても広大な緑色の広っぱと言う感じで、大和三山がくっきりと見渡すことができる。畦道くらいの狭い歩道を進んで行くと写真にあるように蓮池があり、大きな緑の葉っぱが一面を覆っているが、この日はもう8月の終わりと言う頃で花はほとんどが散ってしまい、チラホラと咲いている花もシーズンが過ぎてしまっていて、弱弱しくても最後の力を振り絞って、さあ、見て行って、と言う感じで咲いてくれている。それにしても蓮の花ってどことなく宗教的な雰囲気があって、背筋がゾクゾクするような感覚にさせられてしまう、苦手なはずなのにそれでも写真に撮ってしまう、人間って複雑なもんやなあ・・・
特に見所もなくただの原っぱを相棒と西の方向へと駆け抜けて西一坊大路となる道へと出る。上の写真の中には飛鳥関連の史跡を世界遺産にとの幕が掛かっているが、そんなに世界遺産って魅力的なんかなあ、なりたがっている所はこの近くでも堺の古墳群とかいろいろあるみたいだが、観光の目的でなりたいって思ってるんならもういい加減にしてくれと言う気がする。確かに明日香の史跡にはそれに似合うだけの資格はあるかも知れないが、いまさら「世界遺産」と言う名前だけの箔など頂くほどのものでもないだろうし、そんなものなくても十分世界に紹介出来得る観光地であると思う。ちなみに明日香には国の登録有形文化財は建物部門ではひとつもありません。
この道は明日香へ向かう時によく利用する道、ここよりひとつ西側にある道が下ツ道に通じていることから西二坊大路が黄道169号線に当たるがそちらは交通量が多いのでこちらを走ることが多いのだが、この道は途中から方向を変えて明日香方面へと通じている。その方向が南東方向なのだが、そうなるとその途中で朱雀大路に当たるはずなのだが、自分(一人称)の記憶ではそのような道は思い当たらない、朱雀大路は幻なのか・・・?
上の地図で六条大路に当たる道、バスも通る広い道だが、藤原宮跡の大極殿にあったであろう場所のちょうど南側に当たる場所に上の写真にあるように朱雀大路の跡を示す看板があった。看板はあれど、さて、道は・・・となるとその向こう側は丘になっていて道の後は見当たらない、丘の上は普通に住宅があってもう朱雀大路の痕跡を示すものもないと言った感じ。地図を見ても朱雀大路跡から南へ伸びる道は全然なくて、途中にニュータウンの中を通る道がその位置にあるだけで、明日香までその痕跡を手繰ることはできない。平城京でもそうだったが朱雀大路のその後の扱いがあまりにも不憫すぎるような気がする、平安京は確か千本通だったか、まだ形が残っているだけでもありがたいと言ったところか。
前編でも書きましたが、藤原京についてはまたいずれ、機会を作って走ってみたいと思っています。宮跡の南側には大官大寺や薬師寺などの跡があるのですが、この時は写真1枚目にある紀寺跡を巡っただけ、そう言えば「紀寺」って平城京にもありますが何か関連があるのでしょうか。今回走ったのは8月の終わりであまり天気が思わしくない頃、さっき見た蓮もシーズンの終わり頃でしたが、写真3枚目~5枚目にあるひまわりも少し薄暗くなった空をバックにどことなく寂しそう、もう俺達の季節も終わりか・・・てな感じでうなだれていて元気がありません。今は秋桜が見頃だと言うことですが今回は訪れる機を逸してしまいました、大和三山を風景に咲く秋桜も絵になったのでしょうけど、それは宿題として来年にとっておきましょうか、今回もお付き合いのほど、どうもありがとうございました。 まちみち
今回はこの間お送りした藤原京巡りの後編をお送りしていきます、間を置くとまた忘れてしまうかも知れないんで。藤原京は平城京時代の前にあった日本で初めての条坊制の都、しかしここが政治の中枢であったのはわずか16年間だけだったとのこと、しかも宮都の完成も次の平城遷都の数年前と言うことで都としてあった時期はほんのわずかだったことになる、この都が置かれる前が聖徳太子から蘇我氏、大化の改新と大きく時代が動いた時期、後は平城京で華やかな奈良時代に入る時期なのであまり歴史的にもあまり前面に出ることがない時代と言ったところか。
その政治の中枢となった藤原宮跡は大和三山と明日香の地域にちょうど四方を囲まれるようにしてある、宮跡と言っても広大な緑色の広っぱと言う感じで、大和三山がくっきりと見渡すことができる。畦道くらいの狭い歩道を進んで行くと写真にあるように蓮池があり、大きな緑の葉っぱが一面を覆っているが、この日はもう8月の終わりと言う頃で花はほとんどが散ってしまい、チラホラと咲いている花もシーズンが過ぎてしまっていて、弱弱しくても最後の力を振り絞って、さあ、見て行って、と言う感じで咲いてくれている。それにしても蓮の花ってどことなく宗教的な雰囲気があって、背筋がゾクゾクするような感覚にさせられてしまう、苦手なはずなのにそれでも写真に撮ってしまう、人間って複雑なもんやなあ・・・
特に見所もなくただの原っぱを相棒と西の方向へと駆け抜けて西一坊大路となる道へと出る。上の写真の中には飛鳥関連の史跡を世界遺産にとの幕が掛かっているが、そんなに世界遺産って魅力的なんかなあ、なりたがっている所はこの近くでも堺の古墳群とかいろいろあるみたいだが、観光の目的でなりたいって思ってるんならもういい加減にしてくれと言う気がする。確かに明日香の史跡にはそれに似合うだけの資格はあるかも知れないが、いまさら「世界遺産」と言う名前だけの箔など頂くほどのものでもないだろうし、そんなものなくても十分世界に紹介出来得る観光地であると思う。ちなみに明日香には国の登録有形文化財は建物部門ではひとつもありません。
この道は明日香へ向かう時によく利用する道、ここよりひとつ西側にある道が下ツ道に通じていることから西二坊大路が黄道169号線に当たるがそちらは交通量が多いのでこちらを走ることが多いのだが、この道は途中から方向を変えて明日香方面へと通じている。その方向が南東方向なのだが、そうなるとその途中で朱雀大路に当たるはずなのだが、自分(一人称)の記憶ではそのような道は思い当たらない、朱雀大路は幻なのか・・・?
上の地図で六条大路に当たる道、バスも通る広い道だが、藤原宮跡の大極殿にあったであろう場所のちょうど南側に当たる場所に上の写真にあるように朱雀大路の跡を示す看板があった。看板はあれど、さて、道は・・・となるとその向こう側は丘になっていて道の後は見当たらない、丘の上は普通に住宅があってもう朱雀大路の痕跡を示すものもないと言った感じ。地図を見ても朱雀大路跡から南へ伸びる道は全然なくて、途中にニュータウンの中を通る道がその位置にあるだけで、明日香までその痕跡を手繰ることはできない。平城京でもそうだったが朱雀大路のその後の扱いがあまりにも不憫すぎるような気がする、平安京は確か千本通だったか、まだ形が残っているだけでもありがたいと言ったところか。
前編でも書きましたが、藤原京についてはまたいずれ、機会を作って走ってみたいと思っています。宮跡の南側には大官大寺や薬師寺などの跡があるのですが、この時は写真1枚目にある紀寺跡を巡っただけ、そう言えば「紀寺」って平城京にもありますが何か関連があるのでしょうか。今回走ったのは8月の終わりであまり天気が思わしくない頃、さっき見た蓮もシーズンの終わり頃でしたが、写真3枚目~5枚目にあるひまわりも少し薄暗くなった空をバックにどことなく寂しそう、もう俺達の季節も終わりか・・・てな感じでうなだれていて元気がありません。今は秋桜が見頃だと言うことですが今回は訪れる機を逸してしまいました、大和三山を風景に咲く秋桜も絵になったのでしょうけど、それは宿題として来年にとっておきましょうか、今回もお付き合いのほど、どうもありがとうございました。 まちみち