おはようございます。
前に中立売通を走って北野町界隈まで来た話をお送りしましたが、今回はその続きとなる走りの模様をお伝えしていこうと思います。もう去年の7月頃の話だったのですが、お送りが今頃となってしまいました、早く蔵から出してくれ~、てな感じでずっと置いてあった件だったのですが、そろそろ日の目を見せてあげることとして、まずは北野天満宮界隈からスタートしようと思います。
中立売通は途中から向きを斜めに変えて北野町へと差し掛かり一条通と交差しますが、その行き着いた所が今出川通にある北野天満宮前交差点、ここからは天満宮には寄らずにその横を沿う道へと入って行きます。通りを少し進むと神社の東側の入口となる所があり、その一角には写真2枚目にある「上七軒」の碑が立っている、いかにも京都の町らしい響きのする町の名前だが、その町は南側から合流してきた通りにあるようだ、と言うことでここで折り返して南側にある細い道へと入って行く。写真3枚目以降にある町並を見て分かるとおり、ここは花街で自分(一人称)にはほとんど縁のない所、まあ通り過ぎるだけならいいでしょう、町並の一角には歌舞練場もあって舞妓さんを見ることできるかなと思ったが、それは叶わなかった。
さて、この後は今回の本題となる上立売通を進んで行くことにする、と言っても道は地図上では目立たない、町中の入り組んだ所を通っているので、まずは一番近くの大きな通りである千本通へと出て、そこから交差点名を確かめて上立売通へと入って行く。上の写真にあるとおり、狭い道に普通の民家が両脇を狭めるようにして軒を為している、主に普通に人々が生活を送っている所を通って行くが、派手な観光地の風景も京都の見所なら、この風景もまた京都の見所のひとつかも知れない。写真4枚目は京都市の選定する歴史的意匠建造物である民家、5枚目にある町名表示の看板、その古さと京都独特の町名、それを表記している文字の形もいかにもこの町らしい雰囲気、狭い通りを走っていて見かける何気ない風景もまた京都と言う町が見せてくれる一面である。
写真は堀川通付近、この辺りも西陣と言われる辺り。前回の中立売通を走った時の西陣は織物の街であることを中心に紹介したと思うが、ここでの西陣は歴史的な背景からの紹介となります。その背景とは「応仁の乱」、1467年(いよいよむなしい、と覚えました)から約10年も続いた内乱で、この戦のせいで京の街は廃れ、室町幕府は崩壊し、時は戦国時代へと入って行く歴史的にも重要な分岐点となる出来事である。上の写真に出てくる山名宗全と言う名前の武将がその乱の中心的な人物で、その山名宗全が陣を構えたのがこの辺り、今で言う西陣と言う所である。室町時代と言うとドラマやドキュメント番組でもそれほど取り上げられることがなくいまいちよく分からない時代のイメージ、自分(一人称)が名前を知っていると言っても足利義満、義政くらいである。足利義満と言うと『一休さん』で知られているが、全般的には将軍家には何やかんやがあって・・・いや、その何やかんやが大事な話でしょう、何やかんやって何なんですか・・・何やかんやは何やかんやです!!
まあ、よく分からないと言うことです、どうもこの時代のことはよく分かりません、何かいろいろとややこしい感じがするので調べる気にもなりません。まあ大河で取り上げられることでもあったら興味も出てくるんやろうけど、2020年まではラインナップが決まってますからねえ。いずれにしても京都の風流を感じる「西陣」と言う地名が、歴史の暗い部分を背負ったところから生まれた名前だと言うことには違いないようです。
堀川通を過ぎると、あれ、ここはどこかで見たことある風景と思ったらそこは前に新町通を走った時に通った所、同志社大学新町キャンパスがある所である。ここを抜けるともうすぐに烏丸通、上立売通はこの先烏丸通の横断歩道を渡った先を真っ直ぐ進んだ所にある寺院で途絶えてしまう。その右手側にあるのが同志社大学、花街から始まった上立売通の走りは普通の生活の雰囲気を感じる場所、歴史の混乱の舞台となった場所と経て、最後は学生さんが多く行き交う場所での終わりとなりました。さて、今回はここまでとしておきましょう、次回もお付き合いよろしくお願いします。 まちみち
前に中立売通を走って北野町界隈まで来た話をお送りしましたが、今回はその続きとなる走りの模様をお伝えしていこうと思います。もう去年の7月頃の話だったのですが、お送りが今頃となってしまいました、早く蔵から出してくれ~、てな感じでずっと置いてあった件だったのですが、そろそろ日の目を見せてあげることとして、まずは北野天満宮界隈からスタートしようと思います。
中立売通は途中から向きを斜めに変えて北野町へと差し掛かり一条通と交差しますが、その行き着いた所が今出川通にある北野天満宮前交差点、ここからは天満宮には寄らずにその横を沿う道へと入って行きます。通りを少し進むと神社の東側の入口となる所があり、その一角には写真2枚目にある「上七軒」の碑が立っている、いかにも京都の町らしい響きのする町の名前だが、その町は南側から合流してきた通りにあるようだ、と言うことでここで折り返して南側にある細い道へと入って行く。写真3枚目以降にある町並を見て分かるとおり、ここは花街で自分(一人称)にはほとんど縁のない所、まあ通り過ぎるだけならいいでしょう、町並の一角には歌舞練場もあって舞妓さんを見ることできるかなと思ったが、それは叶わなかった。
さて、この後は今回の本題となる上立売通を進んで行くことにする、と言っても道は地図上では目立たない、町中の入り組んだ所を通っているので、まずは一番近くの大きな通りである千本通へと出て、そこから交差点名を確かめて上立売通へと入って行く。上の写真にあるとおり、狭い道に普通の民家が両脇を狭めるようにして軒を為している、主に普通に人々が生活を送っている所を通って行くが、派手な観光地の風景も京都の見所なら、この風景もまた京都の見所のひとつかも知れない。写真4枚目は京都市の選定する歴史的意匠建造物である民家、5枚目にある町名表示の看板、その古さと京都独特の町名、それを表記している文字の形もいかにもこの町らしい雰囲気、狭い通りを走っていて見かける何気ない風景もまた京都と言う町が見せてくれる一面である。
写真は堀川通付近、この辺りも西陣と言われる辺り。前回の中立売通を走った時の西陣は織物の街であることを中心に紹介したと思うが、ここでの西陣は歴史的な背景からの紹介となります。その背景とは「応仁の乱」、1467年(いよいよむなしい、と覚えました)から約10年も続いた内乱で、この戦のせいで京の街は廃れ、室町幕府は崩壊し、時は戦国時代へと入って行く歴史的にも重要な分岐点となる出来事である。上の写真に出てくる山名宗全と言う名前の武将がその乱の中心的な人物で、その山名宗全が陣を構えたのがこの辺り、今で言う西陣と言う所である。室町時代と言うとドラマやドキュメント番組でもそれほど取り上げられることがなくいまいちよく分からない時代のイメージ、自分(一人称)が名前を知っていると言っても足利義満、義政くらいである。足利義満と言うと『一休さん』で知られているが、全般的には将軍家には何やかんやがあって・・・いや、その何やかんやが大事な話でしょう、何やかんやって何なんですか・・・何やかんやは何やかんやです!!
まあ、よく分からないと言うことです、どうもこの時代のことはよく分かりません、何かいろいろとややこしい感じがするので調べる気にもなりません。まあ大河で取り上げられることでもあったら興味も出てくるんやろうけど、2020年まではラインナップが決まってますからねえ。いずれにしても京都の風流を感じる「西陣」と言う地名が、歴史の暗い部分を背負ったところから生まれた名前だと言うことには違いないようです。
堀川通を過ぎると、あれ、ここはどこかで見たことある風景と思ったらそこは前に新町通を走った時に通った所、同志社大学新町キャンパスがある所である。ここを抜けるともうすぐに烏丸通、上立売通はこの先烏丸通の横断歩道を渡った先を真っ直ぐ進んだ所にある寺院で途絶えてしまう。その右手側にあるのが同志社大学、花街から始まった上立売通の走りは普通の生活の雰囲気を感じる場所、歴史の混乱の舞台となった場所と経て、最後は学生さんが多く行き交う場所での終わりとなりました。さて、今回はここまでとしておきましょう、次回もお付き合いよろしくお願いします。 まちみち