まちみちふうけい

四角い枠に切り取られた風景は一瞬のもの、そんな一瞬を追い求めてこれからも相棒と走り続ける・・・

No.1848 万葉歌碑巡り・桜井市

2022-11-14 10:07:27 | 万葉
よろしくお願いします。











雨に悩まされた9月の最初の3連休、雨が上がった日にチョイと走ろうと思い山の辺の道に咲く彼岸花を巡った記録は前回お伝えしました。桜井市に入った所でおとなしく引き返していればいいものを、雨が降ってないのをいいことにもうちょっとだけ走ろうと思い、忍阪街道へとやって来ました。久しぶりに旧街道の雰囲気が漂う町並を走っていると歌碑を見つけた、確か欽明天皇陵の近くにまだ巡り切れてなかった万葉歌碑があったはず、と思って案内板を見てみたがどうもこれは万葉歌碑ではないみたい、まあ今回は万葉歌碑巡りが目的ではないので、また次回の宿題としておこう。さて、そのまま街道を先へと進むと国道166号線へと突き当たる、ここで引き返そうとはもう思わなくなっていて、初めての倉橋溜池へ行ってみようと言う気になっていた、この考えがこの後の大変な走りのプロローグとなってしまいました。
























国道から逸れて坂道を上ると倉橋溜池が見えてきた、桜井市の農業用水を供給している所はどんな所か、と思ったが普通に何もない溜池だった。池の畔の道を進んで行くと公園があり、その中に歌碑が立っていた↓↓↓

「大君は 神にしませば 真木の立つ 荒山中に 海を成すかも」(柿本人麻呂・巻3-241)

「荒山中に海を成す」とは変な言い回しみたいですが、この場合の海と言うのは池のこと・・・となると倉橋池がそうなのか、と考えたいところですが、解説のページを読む限りではあまり関係ないようです。
そのまま池の沿いを進んで行くと建物が見えてきて、池から離れてそちらへと進んで行ってみる。その建物は桜井市立総合福祉センターとある、ここ、前に来たことがあったなあ・・・と思い返してみると、以前都巡りでここに倉梯柴垣宮があったことで訪れたことがあった。その場所に行ってみると都の碑があり、そこから見る二上山には覚えがあった、その同じ場所に万葉歌碑が立っているが、前に来た時はそれを見事にスルーしていた、僕としたことが・・・。

「はしたての 倉橋山に 立てる白雲 見まく欲り 我がするなへに 立てる白雲」(柿本人麻呂・巻7-1282)

「倉橋山」とはこの辺りにある山のことだろうが、地図にははっきりと名前が記された山はないので、漠然とした山のことでしょう。近くには大きな古墳があり桜井市の中心部からはかなり離れた場所、市街地までは下り坂なので引き返せば一気に戻ることができるが、この時選択したのは上りの方、多武峰まで5キロとある。

















多武峰までは一度上りたいと思っていたが、たった5キロの距離とは言え上りはかなりきつそう、ただここまで来たらもう上るしかないと思って走り始めていた。ただここからは延々と続く上り坂、早速後悔してしまったが一度行くと決めてしまったものはそう簡単に引き返せない、とにかく前だけを目指して上って行く・・・。
で、やっとこさたどり着いた談山神社への交差点、神社へは旧道が通じているがその入口にも歌碑が立っている↓↓↓

「ひさかたの 天行く月を 網に刺し 我が大君は 蓋にせり」(柿本人麻呂・巻3-240)

2番目のゾーンで先に紹介した歌が241番だったから、この歌とは連れのようですね。さて、談山神社については次回でのお伝えとして、帰りに立ち寄った場所・・・寺川にある不動滝の近く・・・にある万葉歌碑↓↓↓

「梯立の 倉橋山を 嶮しみと 岩かきかねて 吾が手とらすも 梯立の 倉橋山は 嶮しけど 妹とのぼれば 嶮しくもあらず」

万葉歌碑とあるのですが、この歌は古事記に編纂されているとのこと、万葉集でないのを取り上げるのは初めてですね、万葉歌碑と言ってもこういうパターンもあるんやなあ~。談山神社にはこの他にも万葉歌碑があるみたいなのですが、元々は歌碑巡りが目的ではなく急造行程の走りだったのでノーマーク、次回の宿題としたいところですが、あまりにもきつい上りだったのでそれもないかも。チョイ走りのはずが大変な走りとなってしまった今回、その最後の目的地となった談山神社については次回でのお送りとしておきましょう、今回もご覧いただきましてありがとうございました。・・・・・・・・・・まちみち



No.1788 万葉歌碑巡り・奈良盆地中部編

2022-07-10 19:42:49 | 万葉
よろしくお願いします。

















奈良県内での万葉歌碑巡りはある程度巡ってはいるのですが、ここでそのお伝えをしたのがもうかなり前のこと、その時に取り上げきれなかった歌碑や、巡りで見つけきれなかった歌碑、その後新しく見つけた歌碑もあります。今回は奈良盆地中部編としてお送りしていくのですが、もはや歌碑ではなく案内板や歌が書かれているものなども取り上げています、やはり奈良は万葉のお膝元と言うのを改めて思い知らせてくれる感じです。

「あしひきの 山の際照らす 桜花 この春雨に 散りゆかむかも」(作者不詳・巻10-1864)

写真1枚目、2枚目は広陵町の馬見丘陵公園の近くにある歌碑、案内にあるように矢印の方向に進むと桜峠と言う場所に行けるわけだから、桜つながりでこの歌が記されているのか・・・。

「大君の 命畏み 柔びにし 家を置き こもりくの 泊瀬の川に 舟浮けて・・・」(作者不詳・巻1-79)

「みてぐらを 奈良より出でて 水蓼の 穂積に至り 鳥網張る 坂手を過ぎ 石橋の 神奈備山に・・・」(作者不詳・巻13-3230)

長い歌が続いて出てきました、上の歌は写真3枚目、4枚目、田原本町の村屋神社にある歌碑にあるもの、感じがズラリと並んで何やら分かりにくい感じ。歌の主が天皇の命で住み慣れた家を離れて大和川を渡って奈良の都の造営に努める、と言う意味のものです、この神社が大和川の近くにあるのでこの歌なのでしょう。その次の歌も感じがズラリと並んで全く意味不明、こちらも写真5枚目、6枚目にある田原本町の神社で見つけたもの、田原本町の中心部に近い阪手集落の中にあり、歌の中にも「坂手」と言う二文字が見えています。ここで来訪した2つの神社については近々神社巡りの項でもお伝えすることとしておきます。

「うちひさつ 三宅の原ゆ ひた土に 足踏み貫き 夏草を 腰になづみ いかなるや・・・」(作者不詳・巻13-3295)

写真下5枚目、近鉄石見駅前にある案内板に書かれたこれも長い歌なのですが、歌の途中で歌い手の主が変わっているのがうかがえます。その横に書かれた訳文を見るとこの歌は母親と息子の会話になっていて、息子の妻の存在を両親が知らないと言う何ともわけありな感じの内容なのですが・・・、まあそれは良しとして、この歌は太子道沿いの三宅町の中心部にある「恋人の聖地」と呼ばれる場所にも歌碑があるのですが、場所の名前にこの歌の内容はちょっと意味深な感じもしますね。この長い歌の中には「あざさ」と言う言葉が出てきますが、この町の花があざさとなっていて町内の至る所で見ることができるのが、この生々しい歌の癒しにもなっているかのようです。

















「ひさかたの 天知らしぬる 君故に 日月も知らず 恋ひわたるかも」(柿本人麻呂・巻2-200)

橿原市、明日香村での万葉歌碑巡りはほぼ終えていたのですが、写真下2枚の歌碑がある神社は神社巡りで初めて訪れた所にあった歌碑、と言うことで取り上げました。前半部の「君」はもうすでに亡くなっている人を表していて、ここでは高市皇子を指している、この200番の前に柿本人麻呂は高市皇子に当てて長い歌を詠んでいて、この200番はその反歌に当たることから、皇子に対しては特別な思いがあったかのようにうかがえます。




















今回は5日ぶりの更新となるのですが、これはよくあるネットの不都合があってのもの、最近調子が良かっただけに油断した頃にやって来た感じです。そしてこの更新が空いた日の間に奈良県では最悪の事件が起こってしまいました。同じ奈良市に住んでいるしょ~もない奴がしょ~もない理由、本人にとっては深刻かも知れないが人を殺すには十分しょ~もない理由で・・・。それに奈良県警の警備もあまりにも杜撰で杜撰で・・・、安部さん、まさか奈良でこんな目に合うなんて思ってもなかっただろうなあ、無念だよなあ・・・。自分(一人称)も昨日(9日)、事件現場の近鉄西大寺駅前に行って手を合わせてきました、そんな柄でもないんですけどね、駅からはずっと献花に訪れた人の列がズラリと続いていて、アンチも多かったけどやっぱり日本のために一生懸命働いてくれた人としてみんな認めてたんですね。それだけにもう本当に奈良の人間のしでかしたことが情けないやら、恥ずかしいやら、嘆かわしいやらで・・・、本当にごめんなさい、ごめんなさい・・・







No.1758 万葉歌碑巡り・・・明石市公園巡り

2022-05-11 10:03:24 | 万葉
よろしくお願いします。




















久しぶりの万葉歌碑巡り、今回は明石市を巡って行くこととするのですが、前に明石にやって来たのは2019年の夏、甲子園の真っ最中で猛暑の中を東海大相模vs近江の試合を聞きながら走りました。あの時は明石の沿岸部から東二見へ、その後は稲美町へと至ったのですが、内陸部は歌碑のある公園の場所が分からないことや、あまりもの暑さと言うこともあって後半はグダグダになってしまいたくさんの宿題を残してしまうこととなりました。その時は次はもうすぐに来ることを、と考えていたのが間隔が2年以上も空いてしまいました、まあ公私共々なんやかんやありましたからね。今回巡ったのは昨年の12月29日、この時も公私共々なんやかんやの真っ最中、病気で入院が決まったためにしまなみの旅を断念、その置き換えに兵庫方面の日帰り旅を計画した次第、ついでに相棒君も変速が不調でハンデが重なるばかりの走りとなってしまいました。ただ2年、間が空いたこともあって予習は十分、前回巡ることができなかった場所が分からなかった公園も地図で調べ上げて準備は万端、旅ができないツケは走りで返すべく明石へと出向きました。

















今回巡ったのは明石市の北部の丘陵地に当たる部分、魚住、大窪、高丘と言った地名はこの巡りの予習で嫌と言うほど見ました。今回巡った万葉歌碑は全部が公園にあるもので、歌の内容はその地に関係あるものではなく、季節や花に関係するものばかりでした。この辺りにある公園は「○○△△公園」、○○は地名で△△は植物の名前が入る名前が多いのが特徴、地元の人たちの憩いの場所となる所もあれば、お粗末に草が生えっぱなしの小さな公園もありました。いつもの歌碑巡りではその地に関する歌があって、それに興味を示してここで取り上げるのですが、今回はそう言うパターンではないので個別には取り上げにくいですね。一部の歌碑について場所と歌だけ取り上げておくこととしましょうか↓↓↓

赤根川緑地・・・「夏まけて 咲きたるはねず ひさかたの 雨うち降らば うつろひなむか」(大伴家持・巻8-1485)
西島ヒマラヤ公園・・・「居明かして 君をば待たむ ぬばたまの 我が黒髪に 霜は降るとも」(磐姫皇后・巻2-89)
長坂寺クスノキ公園・・・「磯の上の つままを見れば 根を延へて 年深からし 神さびにけり」(大伴家持・巻19-4159)
金ケ崎ケヤキ公園・・・「巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲はな 巨勢の春野を」(坂門人足・巻1-54)
西脇ヒマラヤスギ公園・・・「高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るたむ 見る人なしに」(笠金村・巻2-231)
高丘ツツジ公園・・・「家なれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」(有間皇子・巻2-142)
高丘ジンチョウゲ公園・・・「昼は咲き 夜は恋ひ寝る 合歓木の花 君のみ見めや 戯奴さへに見よ」(紀女郎・巻8-1461)















それぞれの歌が季節の歳時記という感じで紹介されているのですが、兵庫に来て巨勢や高円の地名を見るのも違和感ありありです。まあ場所に関わらず季節と花で歌が選ばれていて、町もそれを観光の目玉にしていない、多分地元の人もあまり見向きはしてないでしょう。でも自分(一人称)は興味を持ってしまいましたからね、2年前のギラギラした暑さとは真逆のつんざくような寒風の中、丘陵地の高低差を調子がイマイチの相棒君を走らせました。2年前の巡りでは場所の分からなかった公園も今回は地図の検索機能を駆使して、行きたい場所はほぼ調べ上げました、そのおかげでほぼ取りこぼすことなく万葉歌碑を捕獲することができました。落ち込んでいた気持ちに久しぶりに明るい兆しをもたらしてくれた走りは、2日後の大晦日の兵庫の走りにもつながることになりました、まあ万葉歌碑巡りの方はちょっと薄味になってしまいましたけどね・・・、今回もご覧いただきましてありがとうございました。・・・・・・・・・・まちみち



No.1715 万葉歌碑巡り・・・滋賀県湖北編

2022-02-17 09:47:57 | 万葉
よろしくお願いします。






















昨夏一泊二日で走った滋賀の旅、久しぶりの湖北地方の走りでしたが、その目的のひとつが万葉歌碑巡り、早速行ってみようと思います。

「あぢかまの 塩津をさして 漕ぐ舟の 名は告りてしを 逢はざらめやも」(作者不詳・巻11-2747)

写真1枚目~3枚目、国道8号線の塩津バス停の一角にある万葉歌碑、同じ歌が刻まれた歌碑は次に訪れることになる塩津神社にもありました。「塩津」はこの地そのものを差していると思われるが、なぜかこの歌の碑が香川県にもある、その場所が鎌野海岸と言うことだから冒頭のあぢ「かまの」にかけたのだろうか?香川には塩田があったから塩津には違いないが、やはり滋賀県としては譲ることはできないでしょう。

「高湍なる 能登瀬の川の 後も逢はむ 妹には我れは 今にあらずとも」(波多朝臣小足・巻12-3018)
「鳰鳥の 息長川は 絶えぬとも 君に語らむ 言尽きめやも」(馬史国人・巻20-4458)

米原市にある2つの歌碑、「能登瀬の川」「息長川」はどちらも同じ、この地を流れる天野川のこと、この走りでは見つけきれなかったこの地にあるもうひとつの歌碑にもこの川の名前が読まれています。下の歌碑があるのは琵琶湖の近くにある世継と言う集落の中の、七夕伝説がある神社で見つけたもの。この集落はいろいろと見所が多かったが、遅い時間に寄ったので巡りが中途半端なままで終わってしまった、再訪の宿題を残しているのでまた行くことになると思います。













初日の旅ももうすぐ終わり、この日最後の歌碑を探して琵琶湖の湖岸道路を彦根方面へ、夕陽に映える琵琶湖に気を取られながらも進んでいると、米原市と彦根市の境界の所に神社があり、その向かいの湖岸に大きな歌碑がありました↓↓↓

「磯の崎 漕ぎ廻み行けば 近江の海 八十の港に 鶴さはに鳴く」(高市連黒人・巻3-273)

歌の意味はもう見たまんまと言ったところ、旅人が見たままの情景を歌ったものですが、まあ自分(一人称)が走りに行った所を隈なく写真に収めるとの同じ・・・と言ってしまっていいですかね。何気ない情景を歌っていても、旅には付き物の不安を隠そうとしている雰囲気がうかがえます、昔は電車もバスもないし、暗くなったらどこに泊まるかも探さなければならないですからね。自分(一人称)がこの歌碑を見つけたのももう空が暗くなりかけの頃、旅人が琵琶湖で鶴の声を聞いたのももう暗くなりかけの頃だったかも知れません。
















彦根駅前でひとつ歌碑を巡りその後は中山道にある歌碑を探して走りました。その歌碑がなかなか見当たらない、参考の地図によると確かこの辺りなんやけどなあ~、と思いながらあちらこちらを走り回っていると↓↓↓

「近江道の 鳥籠の山なる 不知哉川 日のころごろは 恋ひつつもあらむ」(崗本天皇・巻4-487)
「犬上の 鳥籠の山にある 不知哉川 いさとを聞こせ 我が名告らすな」(作者不詳・巻11-2710)

写真2枚目~5枚目にある歌碑がそうなのですが、これはあわや見落としてしまうところだったわ~。「鳥籠の山」はこの歌碑がある山のこと、その横を流れているのが「不知哉川」と言うことで、2つの歌が並んでいるわけですね、まあ無事に見つけることができて良かった。

「白真弓 斐太の細江の 菅鳥の 妹に恋ふれか 寐を寝かねつる」(作者不詳・巻12-3092)
 
彦根市肥田の川沿いにある万葉歌碑、「斐太」とは「ひだ」のことでこの地のことでしょうか、と言うのも候補地がいくつかあってはっきりしていないみたいです。白真弓とはひだに架かる枕詞、「真弓」とは元阪神(T)の一番バッター・・・ではなくて、弓の材料になる木とのことですが、これについては前に取り上げたことがあったような気もします、はっきり覚えてないけど。その白真弓が読まれた歌がもうひとつ↓↓↓

「白真弓 石辺の山の 常盤なる 命なれやも 恋ひつつ居らむ」(柿本人麻呂歌集・巻11-2444)

日は変わって9月の滋賀の旅で立ち寄ったJR石部駅前の公園にある万葉歌碑。「石辺の山の常盤なる命」とは石部の山の岩のような永遠の命と言う意味、最後の節に切ない感情がうかがえる歌となってます。と、ここまで滋賀県内を走って万葉歌碑を巡ってきたわけですが、今回この歌が本当にこの地を歌ったものかというのがはっきりしないものがいくつかありました。もう1000年以上前のものなのではっきりと確証できないから、うちがもらっとこう・・・なんて言うのはあまりにも失礼すぎますか。だから引っ付き虫の攻撃を喰らったのかも、今回もご覧いただきましてありがとうございました。・・・・・・・・・・まちみち



No.1705 万葉歌碑巡り、吉野編

2022-01-20 07:48:17 | 万葉
よろしくお願いします。





















今回は久しぶりに万葉歌碑巡り、吉野方面にある歌碑を探し求めていくこととしましょう。奈良県内には多くの万葉歌碑があって、巡ることができる箇所はほとんど行ったのですが、吉野方面はまだまだ未踏の地でした、昨年のGWに吉野川分水巡りを兼ねて行ってきた記録をお送りしていきます。
まずは香芝市の国道165号線が山麓線、中和幹線と分かれる所にある歌碑↓↓↓

「大坂を 我が越え来れば 二上に 黄葉流る しぐれ降りつつ」(作者不詳・巻10-2185)

この歌については前に取り上げたことがありました。この辺りから見る二上山は大和平野から見るのとは全然違う形だが、大阪からやって来た人にとっては初めて見る山と言うことで、旅人にとっては思い入れのある山となっていたのでしょう。
場所は変わって御所市、JR、近鉄吉野口駅の裏手になる国道309号線沿いにあるのが阿吽寺、狭い石段を上って行くと山門がありそこをくぐって境内へ入る。国道からはただの崖にしか見えない所にまさかこんな寺院があるなんて、と言った感じ、その一角に万葉歌碑がありました↓↓↓

「巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲はな 巨勢の春野を」(坂門人足・巻1-54)

「巨勢」とは御所の語源ともなっているが、元はこの地を治めていた豪族の氏であると言うのは、かなり以前に御所市の古墳巡りをした時の記録でお伝えしたことがありました。ひとつの歌の中に言葉が重なる部分や反復する部分があって、リズム感のある歌と言うのも作者の意図したところでしょうか。

















「藤波の 散らまく惜しみ ほととぎす 今城の岡を 鳴きて越ゆなり」(作者不詳・巻10-1944)

吉野口駅から吉野に向かう国道309号線、峠に差し掛かる前に通り過ぎる今木と言う集落の一角、急な石段をたどり着いたのが蔵王権現堂。山門では小さな仁王様がお出迎え、その両側の手前に二つの歌碑が並んでいます、ひとつは万葉集ではないみたいだが、もうひとつが上にある歌が記された万葉歌碑でした。歌の意味はまあ見たまんまと言う感じで分かりますね、「藤波」と言うのはプロレスラーではなくて、藤の花が波のように散っていく様を表している、「今城」もこの地のことだと言うので分かりやすいですね。ここには吉野川分水の分水工があり、今後分水巡りでまた取り上げることとなります、さて、巡りの方はこれより峠越え、急な上り坂が待ち迎えています。













峠を下って吉野川を渡ると下市町へと入る、天川へと向かう道を途中で右側へと折れて、坂道を上った所で下市中央公園へとたどり着く。グラウンドの外周に沿っていろいろな歌碑や句碑が並んでいるが、一部の碑の横にはグラウンドを使っている人たちが荷物やペットボトルを置いていてあまり見栄えが良くない光景も。そんな中に万葉歌碑が3つありました↓↓↓

「春柳 葛城山に 立つ雲の 立ちても居ても 妹をしぞ思ふ」(作者不詳・巻11-2453)

「よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見」(天武天皇・巻1-27)

「苦しくも 暮れゆく日かも 吉野川 清き川原を 見れど飽かなくに」(元仁・巻9-1721)

葛城、吉野とこの地に因んだ地名が出てくる歌が並んでいます。2番目にある歌はまるで早口言葉のように韻を踏んだ作りになっています、『おはよう朝日です』月曜コメンテーターの福本大清に言わせてみてはどうでしょう。この後は吉野川に戻って下渕頭首工を巡って、最後の万葉歌碑の場所へと向かう、その場所は頭首工からあまり離れていなく川の近くにある鈴ケ森行者堂のそばに立つ歌碑↓↓↓

「今しくは 見めやと思ひし み吉野の 大川淀を 今日見つるかも」(作者不詳・巻7-1103)

行者堂は元は峠にあったものがここに移設されたとのこと、大峯山に向かう山伏がそこに集って修行していたとか。この歌碑があるのが大淀町とのことで、この歌にある大川淀からこの町名になったかのようです。吉野地方にはまだまだ万葉歌碑があるとのことですが、さすがに奥地や高い所にあるとなると巡るのも大変、と言うことで吉野編はここまでとしておきます、今回もご覧いただきましてありがとうございました。・・・・・・・・・・まちみち