現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

星野くんのナイフ

2016-10-26 08:21:46 | キンドル本
 星野くんは、学期が始まってから二週間という妙な時期に転校してきました。
 星野くんは、初めはクラスになじめませんでした。
 みんながドッジボールをしていても、遠くから眺めているだけです。
 そんな時、ひょんなことから、主人公は星野くんと仲良くなります。
 星野くんは、いつもポケットにおとうさんにもらったナイフを持ち歩いています。
 主人公と星野くんたちは、かどぶつけやSケンで遊びます。
 主人公の弟も、星野くんになついています。
 Sケンをめぐって、星野くんとクラスのボスが対決します。
 その過程で、星野くんが転校してきた秘密が明かされます。
 突然、星野くんとの別れがきました。
 その時、主人公の胸に去来した思いは?

 (下のバナーをクリックすると、スマホやタブレット端末やパソコンやKindle Unlimitedで読めます)。

星野くんのナイフ
クリエーター情報なし
平野 厚
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

児童文学におけるネーミング

2016-10-26 08:17:49 | 考察
 児童文学に限らず、作品の登場人物にどのような名前をつけるかは重要なポイントです。
 作者の立場で言えば、書こうとする登場人物にぴったりの名前を思いつけば、その人物は作品の中で自由に活躍してくれてどんどん書き進めていくことができます。
 一方、読者の立場で言えば、登場人物の名前に違和感を持つと、なかなかスムーズに読み進められません。
 その両者が一致すれば、それは幸福なマッチングなのですが、なかなかそううまくはいきません。
 特に、子どもの下の名前にはその時々ではやりがあるので、作品の設定時代に合った名前を使わなければなりません。
 例えば、かつては女の子の名前としてはポピュラーだった下の字に「子」を使った名前は、現在ではクラスに一人か二人ぐらいしかいません。
 そんな時に、現代を舞台にした作品に、名前に「子」がついた女の子がたくさん出てくると、それだけで古臭く(昭和っぽく)感じられてしまいます(ある合評会で村中李衣の「チャーシューの月」(その記事を参照してください)を取り上げた時に、女子大生が同様のことを指摘していましたが、子どもが読んだ時にはさらに強く違和感を感じることでしょう)。
 これは、男の子の名前の「男」や「夫」なども同様でしょう。
 かといって、不必要に今風の凝った名前をつけるのも、逆効果になる場合があります。
 いくら現実にキラキラネームをつける親が増えているからといって、安易にそれらを多用すると読者が読みづらいですし、作品の品格も損なってしまいます。
 それらの名前は、ラブコメやファンタジーなどに使うのならまだ作品世界をこわさないこともありますが、シリアスな作品やリアリズムの作品にはそぐわないことが多いようです。
 また、初心者に多いのですが、登場人物にいちいち固有の名前をつけることがあります。
 これは、読者が読んでいて混乱するので、重要でない登場人物はあえてネーミングしないで、その人物の属性をあらわす品詞(おとうさん、おかあさん、先生など)を使うだけにした方が読みやすくなると思います。

クリエーターのためのネーミング辞典 (一般向辞典)
クリエーター情報なし
学研マーケティング
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰にボールをぶつけるのか?

2016-10-25 13:46:56 | キンドル本
 主人公の通う学校では、ボールぶつけがはやっています。
 ゴムボールを体にぶつけて、ぶつかった回数が三回になると罰ゲームになる遊びです。
 主人公は、ボールぶつけで中心メンバーとして活躍しています。
 一方、主人公は、電車で進学塾に通う様になりました。
 そこで、風変わりな友だちと知り合います。
 ひょんなことから、彼からお金をたかられるようになってしまいました。
 返金を催促したら、エアガンで脅されました。
 主人公は、護身のために家からペーパーナイフを持ち出します。
 もしかすると、相手を刺してしまうかもしれません。
 はたして、主人公はこの難局を乗り越えられるでしょうか?
 そして、最後にボールをぶつけられるのは誰でしょうか?

 (下のバナーをクリックすると、スマホやタブレット端末やパソコンやKindle Unlimitedで読めます)。


誰にボールをぶつけるのか?
クリエーター情報なし
平野 厚
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ファンタジーの構成

2016-10-25 09:13:06 | 考察
 児童文学の世界では、同人誌などにおいて、特に初心者の作品では、ファンタジーとしての構成が十分にできていない作品が、多く書かれています。
 不思議な世界を取り扱う時に、作品全体が不思議な世界であるハイ・ファンタジーの作品、日常世界に不思議な世界が混ざりこむエブリデイ・マジックの作品、通常の世界と不思議な世界を行き来する作品(その場合は、二つの世界の通路の設定が重要になります。最悪なのは、ラストで「ああ、夢でした」で終わるものです。この手法は、「オズの魔法使い」や「不思議の国のアリス」などで百年前から使われていて、すでに賞味期限を過ぎています)、ある事象だけが不思議でそれ以外は通常の世界である作品など、いろいろなタイプがあります。
 いずれの手法を使うかは、作品のテーマやモチーフを考えて、慎重に構成を考えるべきです。
 それなのに、多くの作品では、十分な吟味をしないままに安易に手法が選択されていて、ファンタジーの醍醐味である作品世界の構築が不十分なまま書かれています。
 また、そういった作品では、不思議な世界自体も、既存のイメージに安易に寄りかかっている事が多く、読んでいて既視感を覚えてしまいます。


ファンタジーの世界 (講談社現代新書 517)
クリエーター情報なし
講談社

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金メダル男

2016-10-24 16:44:53 | 映画
 運動会で一等賞の金メダルを取ったのをきっかけに、いろいろなことに一番を目指す男を描いたコメディです。
 主演、脚本、監督のうっちゃん得意のショートコントを次々と並べていくような構成なのですが、やはりお話に芯がなく、全体としてはがんばることの大切さを訴えたいのでしょうが、コントの出来にばらつきがあって印象が散漫になってしまいました。
 ジャニーズの知念君が演じる中学生から青春時代まではまだいいのですが、うっちゃん自身が演じる中年から初老までの主人公は、かなり痛々しい感じです。
 ラストのハッピーエンドもとってつけたようで、ストンと落ちてきませんでした。

金メダル男 (中公文庫)
クリエーター情報なし
中央公論新社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マミ、キッド、そしてぼく

2016-10-24 08:08:21 | キンドル本
 主人公は、生まれて初めてバレンタイン・チョコをもらいました。
 一方、少年野球チームでバッテリーを組む親友のキッドは、学校中の人気者なので今年は16個もチョコをもらいました。
 でも、キッドは意中のマミからもらえなかったのでがっかりしています。
 そして、主人公がもらったたった一個のチョコが、マミからのものだったのです。
 ところが、主人公のもらったチョコは、クラスの女の子たちによる「愛のボランティア・プロジェクト」で、もてない男の子たちにお情けでおくられたものだということが判明します。
 やりきれない気持ちのまま主人公は、キッドとレーシングカー場でレースをします。
 その帰りに、主人公にバレンタインチョコレートを贈ったマミが、謝罪の意味で作ったチョコチップ・クッキーをもってきてくれました。
 主人公はキッドと二人で、そのチョコチップ・クッキーを食べます。
 それをきっかけに、主人公はマミに恋心を抱きます。
 主人公は、ホワイトデーに、お返しのホワイト・チョコチップ・クッキーを、おねえちゃんの特訓のもとで手作りして、マミに贈ります。
 ある日、ミニバスケットの試合で、マミは大活躍します。
 それを応援していた主人公とキッドの前に、マミが本命チョコを贈ったとのうわさの、恋のライバルが出現します。
 そのライバルは、別の少年野球チームのキャプテンです。
 三人の恋のライバル心を秘めて、両チームの野球の試合が行われます。
 思わぬハプニングで勝負が決まらず、決着をつけるために行われたじゃんけんの結果は?
 そして、主人公の初恋の行方は?

 (下のバナーをクリックすると、スマホやタブレット端末やパソコンやKindle Unlimitedで読めます)。


マミ、キッド、そしてぼく
クリエーター情報なし
平野 厚
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自転車なんか、大嫌い!

2016-10-23 18:02:54 | キンドル本
 おとうさんと自転車の練習をしていた主人公は、後ろから押してくれていたおとうさんが手を放した時にころんでしまいます。
 それ以来、主人公は自転車が大嫌いになってしまいました。
 でも、本当は自転車に乗れるようになった姿を、おとうさんに見せたいのです。
 自転車の練習は、次におとうさんが単身赴任先から帰ってくるまでお預けになってしまいました。
 主人公は、おとうさんが家にいない間に、友だちに自転車の特訓をしてもらいます。
 はたして、主人公は自転車に乗れるようになるでしょうか?
 
 (下のバナーをクリックすると、スマホやタブレット端末やパソコンやKindle Unlimitedで読めます)。

自転車なんか、大嫌い!
クリエーター情報なし
平野 厚


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辻原登「父、断章」父、断章所収

2016-10-23 17:57:32 | 参考文献
 社会党の地方政治家であった父の記憶について、ノンフィクション風に書かれた作品ですが、小説家ならではの巧みな脚色もかなり加味されています。
 メインのモチーフとして、「父親には息子を殺す権利がある」ということが繰り返し語られます。
 これは辻原にとって重要なモチーフらしく、それまでにも小説やエッセイに何度も書かれてきたようです。
 この「父親には息子を殺す権利がある」というモチーフは、児童文学(例えばワジム・フロロフの「愛について」など)でも大きなモチーフである「(精神的な)親殺し」の反語的な表現で、父親が息子にとって克服しなければならない障壁の象徴なのでしょう。
 それは、辻原が、過去には「父親を矮小化して表現してきた」と、語っていることからも明らかです。
 父の死後三十年以上が経過し、自分が父親が死んだ年齢を超えて、初めて等身大の父親に向き合えるようになったというのです。
 現代では「友だち親子」が増加して、子どもたちは精神的な「親殺し」をする必要がなくなって、だらだらした親子関係がいつまでも続くようになっているようです。
 それにつれて、児童文学でもこのことがテーマになった作品は減ってきています。

父、断章
クリエーター情報なし
新潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オストラコン

2016-10-22 08:17:11 | キンドル本
 中学生の主人公のクラス、二年四組は、独裁者の教師に支配されていました。
 教師が生徒たちを支配する手段が、非人道的なオストラコンでした。
 オストラコン(貝殻追放)とは、古代ギリシャで市民を追放するための投票制度の事です。
 教師は、生徒たちに互いに邪魔になる生徒を投票させて、そのワースト6を特別に設けた隔離席へ追放したのです。
 主人公は、教師が支配するクラスに背を向けて、自分だけの世界を作り上げていきました。
 やがてクラスでは、オストラコンをきっかけに、主人公の友人の弱い立場の少年へのいじめが始まります。
 主人公には、そのいじめを止めることはできません。
 いじめられた少年は、その気持ちを鎮めるように、一人で秘密の儀式を執り行います。
 しかし、ついにそれすら禁じられてしまいます。
 はたして主人公は、この閉塞した状況を打開できるでしょうか?

 (下のバナーをクリックすると、スマホやタブレット端末やパソコンやKindle Unlimitedで読めます)。

オストラコン
クリエーター情報なし
平野 厚
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

関英雄「日本幼年童話小史」日本児童文学1989年6月号所収

2016-10-22 07:33:28 | 参考文献
 関自身が最後に断っているように、ほとんどの紙数を戦前の歴史に費やしたために、戦後についてはほとんど触れられていませんが、現代の幼年文学を考えるうえでいくつかの示唆を含んでいました。
 幼年童話が童話から読者対象の年齢を考慮して分化したことは明らかですが、その主要な媒体が雑誌であったことが、その性格を規定してしまったようです。
 少年雑誌、少女雑誌、幼年雑誌という順番で生み出されていった童話雑誌文化は、当時の男尊女卑の風潮を反映しています。
 少年雑誌が男の子向けの作品が多かったことから、少女雑誌がそこから分化しました。
 このように性別に雑誌が構成されると、おのずから読者対象の年齢が上がってしまい、そこから幼年雑誌(男女の区別はない)が生まれました。
 これは、戦後のマンガ雑誌でも同様でしょう。
 ジャンプなどの少年雑誌や別冊マーガレットなどの少女雑誌の読者年齢が上がることによって、コロコロコミックスのような年少の読者向けの雑誌が誕生しました。
 つまり、幼年童話の対象は、まだ性差が大きくない幼少期(幼児、低学年、子どもによっては中学年も含まれるでしょう)だったのです。
 次に、雑誌という形態であったために短編が中心になりました。
 年長向けの雑誌では連載という形態で長編の発表も可能でしたが、年少の読者には次の月まで前の号の記憶をとどめるのが難しかったのでしょう。
 また、識字教育との関連で、使われる漢字も読者たちが学校で習う画数の少ないやさしい漢字に限定されていきます(この風潮は、現在の児童書の出版においても踏襲されていて、編集者から「漢字をかなにひらく」ことが常に要求されます)。
 その一方で、当時の子どもたちがエンターテインメントとして愛読していた講談本(「猿飛佐助」、「真田十勇士」など)は難しい漢字も使われていましたが、総ルビで印刷されていた(これは子どものためというよりは、漢字を知らない大人向けの配慮だったでしょう)ので年少の読者にも読むことができました。
 どちらが字を覚えるのに有効であるかは議論のあるところですが、学校教育の影響力の方が出版社には強かったのでしょう。
 このやさしい漢字を使った短編志向の幼年童話伝統は、1957年に出版された本格長編幼年文学であるいぬいとみこの「ながいながいペンギンの話」で打破されます(ただし漢字制限はされています)が、現在ちまたにあふれている安直な幼年童話(児童文学とは呼びたくありません)群は、おそらく先祖返りしているのでしょう。

日本児童文学 2013年 08月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
小峰書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

児童文学における理性と感情

2016-10-21 16:33:38 | 考察
 児童文学から理性が失われてから久しいです。
 かつては、児童文学によって未知な事柄(例えば、都会、地方、外国、男の子、女の子、大人、政治、貧困、差別、格差、障害者、戦争、スポーツ、動物など)を知ることができ、読者の知的好奇心が刺激されました。
 しかし、今ではそういった理性的な内容はほとんど失われて、もっぱら感情(感動する、泣ける、怖い、笑えるなど)に訴える作品ばかりです。
 そういった一時の娯楽に供する作品ばかりが、書店の目立つところに並んでいます。

現代児童文学の可能性 (研究 日本の児童文学)
クリエーター情報なし
東京書籍
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サイン

2016-10-21 08:34:14 | キンドル本
 主人公は、少年野球チームに入っています。
 今まで補欠だった主人公は、初めて試合に先発で出場することになりました。
 その試合を、おとうさんが見に来てくれることになります。
 ところが、来られないはずだったレギュラーの先輩が来たので、やはり補欠になってしまいます。
 試合の終盤で、主人公は代打で出場することになりました。
 主人公は、おとうさんの前でヒットを打とうと張り切ります。
 しかし、監督からは送りバントのサインが出てしまいます。
 おとうさんの前でいいところを見せたかった主人公は、サインを無視してバントをせずに打ってしまいます。
 その結末と、思いがけなくおとうさんがしてくれた話とは?

 (下のバナーをクリックすると、スマホやタブレット端末やパソコンやKindle Unlimitedで読めます)。

サイン
クリエーター情報なし
メーカー情報なし


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒川博行「帳尻」左手首所収

2016-10-21 08:30:15 | 参考文献
 ホスト崩れの占い師の若い男が、客を装った女の証券詐欺にひっかかる話です。
 浅はかな男を笑うのは簡単ですが、似たような詐欺話は私自身も含めてほとんどすべての人たちに、いろいろな所から毎日のように降りかかってきます。
 それによって、家庭が壊れたり不和になったりすることも、少なからずあることでしょう。
 こういった詐欺話を取り扱った作品は、児童文学にもあってもいいかもしれません。

左手首 (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒川博行「淡雪」左手首所収

2016-10-20 08:05:45 | 参考文献
 産廃業者をゆすろうとして、逆に追い詰められていく若い夫婦を描いています。
 この作品でも、雑な犯罪計画が簡単に破たんしてしまうのですが、このようなぎりぎりの生活をしている若い男女の生活には一定のリアリティがあります。
 こういった世代の不満を組織化することができないで、個別に暴発する可能性をはらんでいる社会の危うさが感じられます。

左手首 (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

児童文学における「繰り返しの手法」

2016-10-19 08:36:28 | 考察
 児童文学、特に絵本や幼年童話では、「繰り返しの手法」が使われます。
 「繰り返しの手法」というのは、登場人物やシチュエーションを変えながら、同じような場面を繰り返すことです。
 わかりやすい例をあげると、「ももたろう」では、イヌ、サル、キジがキビダンゴをもらって桃太郎の家来になるシーンが繰り返されます。
 読者、あるいは読み聞かせやお話を聞いている子どもたちは、二番目のサルのシーンではイヌと同じようにキビダンゴをもらったことで喜び、三番目のキジのシーンでは、心の中で「キジもきっとキビダンゴをもらうぞ」と期待し、それが実現することでさらに大喜びします。
 このように、「繰り返しの手法」は、読者が物語の世界に自ら入っていくことを助けるのです。
 「ももたろう」の例では繰り返しは三回だけですが、もっと長く繰り返される場合もあります。
 そんな時は、読者の期待に応えるシーンと期待を裏切るシーンを、うまく混ぜることによって変化をつけて、さらに読者を物語に引き込むことができます。

ももたろう (日本傑作絵本シリーズ)
クリエーター情報なし
福音館書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする