goo

聖土曜日




復活を先取り。

前庭の枝垂れ桜が満開で、昨日は天むすの飾りに使ったが、あまりに美しいので桜塩漬けにしておこうかと...

おむずびにしたり、パウンドケーキに入れたいなあ。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

聖木曜日




聖木曜日。
明日は聖金曜日、日曜日は復活祭だ。

わたしは幼児の頃からキリスト教の教育を受けただけで信者でもなんでもないが、キリスト教の行事は、キリスト教化される前のヨーロッパの土着の習慣を残しているため、自然のサイクルを祝う行事にはなんとなく従うことにしている。

キリストの復活、それは長く暗い冬の「死」を祝い、絢爛の春を迎え入れるためのお祭りなのである。
基本的に宗教というものはすべて「穢れ」から遠ざかろうとするものなのだ。
祝わないスジはない。


写真は去年の復活祭のテーブル(去年とは違う写真を載せました)。
去年、どのようにセッティングしたか調べないと毎年同じような雰囲気になってしまうから...まあテーブルにつく人は誰も去年どんなだったかなんぞ覚えちゃいないんですがね!!

そういうわけでこれから食料品の買い出しに行き(そして英国の7%、いやそれ以上の物価上昇に驚くのだろう)、子羊の形のケーキを焼き、夜中に沐浴としてバスソルト入りのお風呂に浸かるつもり。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

勝ち損なうための10の行進曲




先週末、自分までハイブラウになったかのように錯覚させられるコンサートを見た(聴いた?)。

偉人伝を読むだけで偉くなるわけではないのと同様、その興奮は単につかのまの幻想にしかすぎない。
魔法が解けた後は、ああ、なぜわたしはアーティストではないのだろう!! という虚しさに襲われる。悪い二日酔いである。

夫は急に行けなくなったため、迎えにきてくれた時に「あなた、ものすごい損失をしたよ」と開口一番に話した夜。


コンサートのタイトルは「内田光子とロンドン・フィル、ベートヴェンのピアノ・コンチェルト4番」だった。
のみならずプログラムはその他盛りだくさん...

Mitsuko Uchida (piano)
London Philharmonic Orchestra
Vladimir Jurowski (conductor)

Lachenmann Marche fatale (2018) [UK premiere]
Beethoven Piano Concerto No. 4 in G major Op. 58 (1805-06)
Bruckner Symphony No. 6 in A major (1879-81) [ed. Benjamin-Gunnar Cohrs]


指揮者のウラディーミル・ユロフスキ氏、壇上に現れるやマイクを取り出し、演目の解説を始めた。

当初はベートヴェンの『プロメテウスの創造物 序曲』Prometheus Overtureで始めるはずが、ヘルムート・ラッヘンマンのMarche fatale (『致命的軍隊行進曲』とでも訳そうか)に差し替えた理由を、西洋文明への痛烈な批判と、ロシアのウクライナ侵攻に対する反戦のためと、行間に匂わせながら語った。

個人的には「プロメテウスの創造物」としての人間の所業をあげつらうのには、あるいはプログラムはそのままでもよかったんじゃないかと思ったものの、ドタバタなマーチによる強烈な風刺、とてもよかった。

特に序章として、最初にマウリシオ・カーゲルMauricio Kagelの『勝ち損なうための10の行進曲 』10 Märsche, um den Sieg zu verfehlenより、4番と1番が演奏された後だったので、感心することしきり。

調子っぱずれで次第に崩壊していくマーチは、バッグス・バニーやトゥイーティーで有名なワーナー・ブラザーズのドタバタアニメ、『ルーニー・チューンズ』(<わたしは好きだ)的である。表面的には。

独善的で威勢がよく、リズミカルなドタバタは、堂々巡りし、てんでバラバラになり、最初の意味や大義は失われ、周りを巻き込み、うら悲しく、みじめで、それでも終わらせることはできず、誰も勝てない状況に陥る。
あ、わたしはルーニー・テューンズの追いかけっこのことを言っているのですよ(笑)!!!

戦争と資本主義への強烈な皮肉である。

ちなみにラントマンとカーゲルは、ブーレーズなどを好む義理の父のお好みだ。


そしてベートヴェンのピアノ・コンチェルト4番につなげていく。
4番はナポレオン軍が確実にウィーンへ迫っていた時に作曲された。内田光子さんのオーケストラとのダイアローグがすばらしかった。
4番は、5番が『皇帝』とのち呼ばれるのにつながる下準備でもある、と。

オーストリア・ドイツ帝国的なセットは、第2部のブルックナーの6番へと怒涛のように続く。
当初、内田さんの演奏を聞いたら帰ろうと思っていたのだが(ブルックナー苦手。断然断然ブラームス派)、ユロフスキ氏の解説を聞いたら最後まで見るしかないでしょう!


ブルックナーに関しては、野中映さんが『音楽案内』の中で「あなたはぶるっくなーをしんじますか」という超絶おもしろい文章をものにしておられる。ブルックナーを聞くたびにあの文を思い出しては笑ってしまう(笑)。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

insights: icarus


photo by Rhys Frampton


イカロスは、ギリシャ神話の登場人物である。

彼の父親ダイダロスは、ひくてあまたの発明家/土木工事家かつトラブルメーカーだった。

父親の起こしたこれまたトラブルが原因で、イカロスは父親と共に迷宮(あるいは塔とも)に幽閉されてしまう。

迷宮から逃亡するために父ダイダロスの作った羽根と蝋の翼を身につけてイカロスは空を飛ぶが、太陽(アポローン)に近づきすぎたために蝋が溶け、海に落ちて死んでしまう...と。

よく知られた話である。
神をも恐れない慢心を諌める話であるとか、父親の悲劇であるとか、解釈はいろいろあるようだ。


昨夜はこの世で一番美しい男性を見てしまった...

それは古代ギリシャ人が理想化した男性像(彫刻)であり、後世の天才ミケランジャロが「すべての大理石の塊の中には、あらかじめ像が内在している。彫刻家はそれを解き放つのみである」(大意)と言った、まさにそれ。

大理石の中から解き放たれ、たった今出てきたのでは? と思うほどの美しさ。ロイヤル・バレエのプリンシパルMatthew Ball。
彼の出演するバレエ作品は何度も見たことがあるが、彼をこんなに美しいと思ったことはいまだかつてなかった。


『イカロス』は、Matthew Ballがファッション雑誌の仕事をしたのがきっかけで写真家で映像作家のRhys Framptonと知り合い(ダンサーをカメラで追う写真家自身の身体もダンサーのように動くのに気がついた、という話が興味深かった)、作曲家のGuy Chambersを巻き込んで何かを作りたいと始まったそうだ。

昨夜はその結実がプレミアで上演されたのだった。
Matthew Ball自らが振り付けたソロ、ピアノとベース、サキソフォーンのみの音楽、パフォーマンスはセンシャルな白黒の映像作品となったのである。
生の舞台もよかったが、編集された16分ほどの映像もまた感動的だった。

人間の身体にはこんなにも多くの筋肉が隠されていて、こんな可動域があり、そしてある種の人間はその指の先や足の先の先のそのまた向こうを表現することができるのか...

あれ、これってハッピーエンド版のイカロスの話ではないか。


今後、いかにしてこの作品を世に出すのかは未定だそうだがもったいない(会場からはぜひクラウドファンディングでという声が上がった)。
人間の喜びの一つは、「共同して創造すること」である、というのを示しているだけでもう素晴らしいし。
写真集になったら絶対に買います。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ティエポロの聖なる天蓋




「ヴェネツィア派」は、1797年に消滅したヴェネツィア共和国が育んだ、芸術の流派である。

5世紀に東からの異民族の侵入を機にアドリア海の潟へと逃れた人々は、7世紀には最初のドージェを選出、11世紀には国際的に無視できない勢力となった。

その1000年の歴史の最後を飾ったと言って過言ではないのが、フレスコの名手でもあった18世紀のティエポロ(親子)である。


写真は主寝室の天蓋。ティエポロのフレスコ画で彩られている。教会の祭壇のようだ。死ぬならこのような天井を見ながら死にたい。




ビザンチン帝国の影響を受け、ヴェネツィア派の基礎をつくった14世紀ヴェネツィアーノ。
15世紀ベッリーニ一族とジョルジョーネ。

16世紀のティツィアーノはヴェネツィアを体現し、ヴェネツィアはティツィアーノを体現していると謳われたその人であり、そしてティントレット、ヴェロネーゼ。



客室のサロン。こちらはティエポロではないが、壁紙がヴェネツィア独特。
湿気の多いヴェネツィアでは壁紙が適さず、この壁画はキャンバスを直接壁に貼る方式で、この地の独特なのだそう。
実際、触るとぶよぶよとしなる。


と、ヴェネツィアは優れた芸術家を輩出し続けたが、17世紀には社会的な衰退とともに停滞したように見えた。

ヴェネツィアの衰退はやはりヨーロッパからアジアへの直接の貿易航路が開発され、ポルトガル、スペインが自前の船で出張するようになったからでもあるだろう。




しかし18世紀になると「第二次ヴェネツィア派」が最後の花を咲かせる。

フレスコ画の名手ティエポロは、宮殿を彩る天井画に、下方から見上げることによって効果を生む「仰視法」を駆使し、天井を別世界へ続く架け橋とした。

彼の初期の作品にはテネブリスム(光と闇の強烈なコントラスト)の影響がみられ、またティントレットやヴェロネーゼをも継承、独特の透明感のある明るい画風で壁や天井を彩った。




色調は透けるように明るく、清らかで、どこか儚く、悲しげな感じがする。それは人間の世のうつろい、空疎さを表しているかのようだ。
どこか「死」の影が漂うような。

一種のヴァニタス(地上の人生の無意味さや、虚栄のはかなさをテーマにした絵画作品)、という感じがする。

祇園精舎の鐘の声に諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色が盛者必衰の理をあらわすように。

それは必滅の人の死であり、1000年を誇ったヴェネツィアの死でもあったかもしれない。




パパドポリ宮殿は16世紀半ば、ベルガモのCoccina家の依頼でGiangiacomo dei Grigiが建築した。

1748年には宮殿はティエポロ家の手に渡り、このころフレスコも描かれた。
羽振りよかったんですね!!

主階(ピアノ・ノビーレ)は、ジャンドメニコ・ティエポロ(息子)によって装飾され、父、ジャンバッティスタ・ティエポロも、天井画を描いたと推定されている。




世界に美しく居心地のいいホテルは数あれど、わたしは80年代からずっとアマンの大ファンだ。

中でもヴェネツィアのアマンは特別だ。その理由がパパドポリ宮殿をそのまま利用し、ティエポロの天井フレスコがあるからだ。
(また、国家間の経済格差を利用して贅沢をするという、他のアマンにある植民地主義的な構図が少なくとも小さいので気が楽でもある)

昔の建物を使っている場所は、こちらとモンテネグロのスヴェティ・ステファン(島ごとホテル)。どちらもトータルで最高の10/10、いや、迷わずそれ以上つけたい。




ここはヴェネツィア、東西と古今が水路のように交差するところ。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ 次ページ »