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Brugge Style
ピカデリー午後3時 エロス像
今にも夕立が来そうな、ロンドン、ピカデリー・サーカス。
ウエスト・エンドのこちらのサーカス(円形広場)の真ん中に立つのはエロース(エロス)像。
実際にご覧になった方も多いだろう。
普段は写真を撮ったり、休憩をする観光客で鈴なりになる有名スポットであるが、今はもうずっと閑散としており、エロースが放つ矢も空虚にむけられているようで虚しい。
なぜこのサーカスの真ん中に性愛を司るエロース像が立っているのだろう。歓楽街だからか?
実はこちらの像はエロースではなく、エロースの弟アンテロースであり、「キリスト教的慈愛を表す愛の天使」として、第七代シャフツベリー伯(このサーカスから伸びる通りの名前にもなっている)の活動を称えて作られたのだそうだ。
たしかにこの有翼の若者像は目隠しをしていない。
エロースに対応するのはキューピッドであり、キューピッドはしばしば目隠しをして矢を乱射する(<恋は盲目)子供として描かれる。
これは理性的判断力の欠如した状態である。すなわち目隠しをしたキューピッド=エロースは肉体的・地上的愛の象徴なのだ。
愛には二つの側面があり、もうひとつが精神的・天上的愛である。
それを司る理性的キューピッドは目を開いていなければならない。つまり目隠しなしの存在だ。目隠しのないキューピッドは目覚めた、より高い精神的存在なのである。
おお、それがアンテロースか。
しかし肉体的・地上的愛と精神的・天上的愛は対立したままではない。対立しながらも美によって統一されるのである(この3つの結びつきが例えばボッティチェリの『プリマヴェーラ』などに見られる「三美神」)。
この像はピカデリー・サーカスの「エロース像」として完全に定着しているが、慈愛の像だったのだな。
円形広場に立って、行き交う人々を慈愛で守るお地蔵さんみたいな感じか(笑)。
......
この話にはもう一つ先がある。
ネオ・プラトイズム思想によると、「愛は知性を超える存在であるが故に目を必要としない」。
「とすれば、目の見えるキューピッドが理性的であることはよいとして、目隠しされたキューピッドは単なる理性を超えて直接に心を通して天上の世界に結びつくことができるから、理性的キューピッドよりも上位の存在だということになる。」
「目隠しされたキューピッドは知性を超えた心の光で見ることができる故に単なる理性的存在よりも優れている」のである。
おもしろい!
以上、高階秀爾著『ルネッサンスの光と闇 芸術と精神風土』より引用。高階先生の大ファンです。
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