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『ヴェニスに死す』



2019年1月のヴェネツィア。
この時期、なぜかヴェネツィアづいていて、2018年の11月に続いての訪問だった



カミュの『ペスト』を「今読むべき」ならば、こちらも。

トマス・マン『ヴェニスに死す』。ヴィスコンティの映画版も凄い。


要約などで「同性愛」が描かれていると紹介されることが多いが、それだけでは一面的で誤解を生むと思う。
わたしはこの作品が「美」とは何かについてのものだと思うからだ。

主人公アッシェンバッハ教授が、疫病が蔓延し、人々が逃げ出して空っぽになっていくヴェニスに留まったのは(しかも包まれるような幸福の中で)、芸術家の彼が追い求めた「美」がいまここにあり、それ以外にはなかったからだ。

いまここは次の瞬間には消え、それゆえに永遠である。

疫病の蔓延する沈みゆくヴェネツィア、幼くして亡くした娘の面影、自分自身の死の予感、短い少年時代、旅路、斜陽の貴族階級がそれを彩る。

言語化などで保管することのできない美、何者かが晩夏の輝く海辺で「望みにみちた、巨大なもの」(実吉捷郎訳『ヴェニスに死す』岩波文庫 79頁)のある遠くを指差す、その先にのみあり(あるような感じがし)、姿を現したのを捉えたかと思えば、もうすでに遠くにある、決してたどり着くことのできないようなもの。


アッシェンバッハ教授が、映画版では音楽家なのも偶然ではないと思う。

「わたしたちは常に現在にいるのに、どうして過去について、時間について、かくも明確に知り得るのか。今ここには、過去も未来もない。ではどこにあるのか。それらはわたしたちのなかにある、というのがアウグスティヌスの結論だ。」(カルロ・ロヴェッリ著『時間は存在しない』冨永星訳 NHK出版 343頁)

「賛美歌に耳を傾けるとき、一つの音の意味は、その前後の音によって与えられる。音楽は時間の中にしかあり得ないのに、わたしたちが常に現在しか存在し得ないとしたら、どうして音楽を聴くことができるのか。なぜなら、わたしたちの意識が記憶と予想にもとづいているからだ、とアウグスティヌスはいう。
賛美歌や歌は、わたしたちが時間と呼ぶものによって何らかの方法で一つにまとめられ、わたしたちの心に届けられる。ゆえにこれが時間なのだ。時間は丸ごと偏在にある。わたしたちの精神のなかに、記憶として、予想として存在するのである。」(同上 346頁)

これは「時間」について書かれたものだが、ひょっとして「美」にもあてはまるのではないか。


『ヴェニスに死す』、ありがたいことに青空文庫にも入っている。
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