河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

谷川岳・ザイル銃撃事件

2021-08-17 08:23:07 | 登山
毎日ニュースNo.304 射撃で遺体収容(昭和35年)


1960年(昭和35年)9月19日。
群馬県・谷川岳、一の倉沢の超難関、衝立岩(ついたていわ)から、
助けを求める声を聞いたと登山者から連絡があり、
警備隊が現場に急行したところ、
衝立岩正面岸壁上部から200メートル付近で、
ロープで宙づりになっている2名の登山者を発見します。



2名は前日から入山している横浜蝸牛(かたつむり)山岳会の、
野中泰蔵(23)と、服部富士夫(20)と判明しました。
警備隊員が声をかけても2人からは何の応答もありません。

とにかく生死を確かめようと現場に医師が到着しました。
医師は双眼鏡で彼等を観察しますが、
彼等の身体は風を受けてクルクル回転したり、揺れたりして、
まるで生きている様でした。
しかし、医師は彼等は既に絶命していると結論づけました。
いくら時間をかけて観察しても、何の反応も無かったからです。



写真右側の3角にそそり立っているのが衝立岩です。



私は数年前に、この大岩壁を見に行った事があります。
衝立岩は一の倉沢の中で最も難しく、彼等の前には1年前にたった1組だけが
登攀に成功している難所中の難所です。
岩壁の高さは東京タワーがすっぽり入る位の絶壁です。

警察から連絡を受けた蝸牛山岳会員や、彼等の両親が現場に到着しました。
ご両親は息子が登山をやっているとは聞いていましたが、
まさかこれほどの山に登っているとは知らずに、
目の前にそそり立つ大岩壁に呆然として息を呑むばかりでした。



もはや彼等の死は疑いなく、遺体を収容しなければなりません。
しかし岩壁は超難関であり収容するには二重遭難の危険性が高く、
かなり難しいと思われます。

山岳会の会員から「長い鉄棒の先に油を浸したボロ布を巻いて、
点火した(たいまつ)でロープを焼き切る案が出されたのですが、
岩壁までの距離が長く、これは不可能と判断されました。
遭難から2日目の21日に山岳会は収容作業を行います。
しかし二重遭難覚悟の収容作業はあまりにも危険で、
相談の上、自衛隊による銃撃による方法しかないとの結論に達しました。



自衛隊選りすぐりの射撃特級の資格者12名が配置につきました。
軽機関銃2丁。ライフル銃5丁。カービン銃5丁です。
24日、午前3時から開始されましたが、ロープまでの距離は140メートル。
弾丸はロープに当たっているのですが、
ロープがくるくる回ってしまい切断に至りません。

昼過ぎからロープと岩が接触している部分を狙って銃撃すると、
ほどなくロープは切断されて銃撃は成功しました。
消費した弾丸は1300発に達したそうです。
彼等2名の若者は音もなく100メートル下へと落ちて行きました。

「銃撃で遺体収容 -谷川岳遭難-」No.350_2 #中日ニュース




この事件は覚えています。
当時は休日になると谷川岳の遭難ニュースがよく伝えられていました。
そんな危険な山に若者達はよく行くもんだなと、思っていました。

登山界でも、よりによって銃撃で切断するとは、
山岳会は恥ずかしくないのかと散々叩かれていました。
しかし、現代の登山技術から見れば稚拙な技術ですし、
ほぼ前人未踏的な難所ですから、やむ負えなかったと思います。

あれから61年。
谷川岳の死者はうなぎ上りに増え続け、
現在は800人を超え、断トツで世界一の死者を数えます。
高校時代のクラスメートも若干20歳くらいで、ここで亡くなりました。
「魔の山」「墓標の山」の名前は消える事はないのですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする