高校野球 122対0 歴史的な試合があった 大敗した 球児は今…
今から23年前の1998年8月18日。
第80回全国高校野球で歴史的な(事件)がありました。
その年は横浜高校のエース松坂大輔が劇的な逆転優勝をした年でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/f8/76c3820c81dcbbd749e6d6c4ec106788.png)
青森県西部の漁港、深浦町にある深浦高校野球部は、
甲子園経験4回の、東奥義塾高校を相手に、122対0という敗北をしました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/19/268a9e4b4b9b91d040b87b884cf4a4ab.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/7c/434ccca7ae2226e62c4ef27f6af0cf61.jpg)
得点差が大きい試合が出やすい地方大会とはいえ、
122点差というのは日本のみならず世界的な(事件)でもあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/ea/523b66e45a795f7d463ca4f9be7b7d74.jpg)
野球部の監督は、就任1年目、25歳の工藤監督でした。
最初は部員4人。
監督の熱心な勧誘があって6人の一年生が入部しました。
当時の青森県には5回コールドの規定はなく、
7回まで試合をやらなければなりませんでした。
5回終了時で、93対0。
工藤監督はナインを集めて全員に問いました。
「試合続行か?放棄か?決断を自分にゆだねるか?」の3択でした。
ほぼ全員が判断を監督にゆだねると言う中で、
たった一人、エースの佐藤が、
「応援してくれている人も居るんです」と決断を決めかねていました。
長い中断時間にスタンドはざわめいていました。
ナインが守備位置に駆け出した瞬間、球場は割れんばかりの歓声に包まれたのです。
「一瞬何が起きたのか分からなかった」
佐藤に言われるまで、自分達が応援されていること自体忘れていた。
その回から選手たちは変わった。
表情が見る見るうちに生き返っていった。
結果はどうあれ、両校は真剣でした。
点差が開いても東奥義塾の選手たちは笑ったり、ふざけたりする事なく、
長打狙いで大振りすると怒られていて、こっちも本気でやろうと思ったのでした。
結果は5人に6度のサイクルヒットを打たれ、ノーヒットノーラン。
149打席で86安打。7本塁打。76盗塁の滅多打ち。
深浦高校は2007年に生徒数減少により、
木造高校深浦校舎に名前を変えました。
1年生部員6人は欠ける事なく野球を続けました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/f0/4157b446fd8cb17a49fb1b81c1378244.png)
このある意味、素晴らしい青春ドラマは本にもなっています。
私はこの話を、深浦で毎年行われるイベント、深浦歌声ツアーの時に聞かされて知りました。
「122対0って・・そんな話があるのか」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/aa/b61bf772cb3feec6a7e4002decac3e67.jpg)
青森県の小さな町、深浦で1年に1度だけ開かれる「深浦の歌声」は、
毎年200人もの歌声喫茶大好き人間が集まるビックイベントであり、
第一回目は2003年からだったと思います。
最初は50人程度だったのかな?
私が初めて行ったのは2009年の、現在は使っていない公民館での歌声でした。
17.10.8.青春・深浦の歌声
それが、その後はどんどんと参加者が増えて、
恒常的に200人からの人達が集まるというので、
青森県でも話題になり、いつもマスコミに取り上げられています。
歌声好きになった事で行く様になった、遠い深浦町で、
私達とは別に、こんな青春ドラマがあったとはね。
コロナでもう2年も開催されていませんが、
これからはコロナとの兼ね合いでどうなるのでしょうね?
今から23年前の1998年8月18日。
第80回全国高校野球で歴史的な(事件)がありました。
その年は横浜高校のエース松坂大輔が劇的な逆転優勝をした年でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/f8/76c3820c81dcbbd749e6d6c4ec106788.png)
青森県西部の漁港、深浦町にある深浦高校野球部は、
甲子園経験4回の、東奥義塾高校を相手に、122対0という敗北をしました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/19/268a9e4b4b9b91d040b87b884cf4a4ab.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/7c/434ccca7ae2226e62c4ef27f6af0cf61.jpg)
得点差が大きい試合が出やすい地方大会とはいえ、
122点差というのは日本のみならず世界的な(事件)でもあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/ea/523b66e45a795f7d463ca4f9be7b7d74.jpg)
野球部の監督は、就任1年目、25歳の工藤監督でした。
最初は部員4人。
監督の熱心な勧誘があって6人の一年生が入部しました。
当時の青森県には5回コールドの規定はなく、
7回まで試合をやらなければなりませんでした。
5回終了時で、93対0。
工藤監督はナインを集めて全員に問いました。
「試合続行か?放棄か?決断を自分にゆだねるか?」の3択でした。
ほぼ全員が判断を監督にゆだねると言う中で、
たった一人、エースの佐藤が、
「応援してくれている人も居るんです」と決断を決めかねていました。
長い中断時間にスタンドはざわめいていました。
ナインが守備位置に駆け出した瞬間、球場は割れんばかりの歓声に包まれたのです。
「一瞬何が起きたのか分からなかった」
佐藤に言われるまで、自分達が応援されていること自体忘れていた。
その回から選手たちは変わった。
表情が見る見るうちに生き返っていった。
結果はどうあれ、両校は真剣でした。
点差が開いても東奥義塾の選手たちは笑ったり、ふざけたりする事なく、
長打狙いで大振りすると怒られていて、こっちも本気でやろうと思ったのでした。
結果は5人に6度のサイクルヒットを打たれ、ノーヒットノーラン。
149打席で86安打。7本塁打。76盗塁の滅多打ち。
深浦高校は2007年に生徒数減少により、
木造高校深浦校舎に名前を変えました。
1年生部員6人は欠ける事なく野球を続けました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/f0/4157b446fd8cb17a49fb1b81c1378244.png)
このある意味、素晴らしい青春ドラマは本にもなっています。
私はこの話を、深浦で毎年行われるイベント、深浦歌声ツアーの時に聞かされて知りました。
「122対0って・・そんな話があるのか」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/aa/b61bf772cb3feec6a7e4002decac3e67.jpg)
青森県の小さな町、深浦で1年に1度だけ開かれる「深浦の歌声」は、
毎年200人もの歌声喫茶大好き人間が集まるビックイベントであり、
第一回目は2003年からだったと思います。
最初は50人程度だったのかな?
私が初めて行ったのは2009年の、現在は使っていない公民館での歌声でした。
17.10.8.青春・深浦の歌声
それが、その後はどんどんと参加者が増えて、
恒常的に200人からの人達が集まるというので、
青森県でも話題になり、いつもマスコミに取り上げられています。
歌声好きになった事で行く様になった、遠い深浦町で、
私達とは別に、こんな青春ドラマがあったとはね。
コロナでもう2年も開催されていませんが、
これからはコロナとの兼ね合いでどうなるのでしょうね?