私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  134 緒方洪庵の除痘館

2009-04-06 09:41:32 | Weblog
 嘉永3(1850)年といいますから、洪庵が「壬戌旅行日記」を書いた文久2年より12年も前の話になります。
 この年の正月、足守藩主木下利恭は大阪にいる緒方洪庵を招いて天然痘治療のための「除痘館」を足守に設けています。
  
 ゼンナーが見つけた牛痘苗(1796年)が我国に初めて伝わったのは、嘉永2年の秋です。オランダの医師モーニッキという人が持ってきたのが初めだそうです。この種痘が足守の子供たちに植えつけられたのは、牛痘渡来以来、まだ、半年も経ってない頃なのです。いかに速かったのか分かります。
 足守藩主木下利恭から要請を受けた洪庵は、大阪で牛痘を植えた二人の子供を伴って足守に帰ります。そこで、まず手始めに、洪庵は兄佐伯惟正の末子「羊五郎」に、大阪から連れてきた痘児から採った痘苗を植えて結果を見ます。その結果がすこぶる良かったのを見て、多くの足守の子供に植えたのです。
 その時、藩主利恭は、まず、初めに「自分の子供から始めよ」と言って、受けさせたのです。
 人々は、この「種痘」について、まだ、オランダから入ってきたばかりで、どの親も、果たして、この種痘が安全なのかどうかということが分からず、不安でいっぱいでした。それを藩主の御子が受けたと聞いて、また、佐伯惟正の子が受けたと聞いて、正月下旬から3月までの間に、1500人余りの足守の子供たちが種痘をしたのです。
 この足守の除痘館で種痘を受けた子供は足守だけに限らず近隣の撫川・高松・帯江・早島まで、宮内の子も当然入っていますが、その数は5000人を下らなかったと言われます。
 
 この5000という数は、当時、江戸などでも足守を一躍有名にするほどの驚くべき数でした。
 ちなみに、洪庵が大阪に除痘館を設けたのは足守のそれに遅れること10年という歳月がいりました。大体、そのころ江戸でもやはり種痘のための施設ができています。

 どうして、全国に先駆けて、これほどまで、大々的に多くの足守を中心とした子供たちが種痘を受けたかと言うと、単に、藩主の並々ならぬ洪庵に対する厚い信頼があったということばかりではなく、その他の原因として、種痘のために設けた「足守除痘館」に勤務した医者の顔ぶれを見ても、人々を安心させれだけの多くの医者を洪庵は、この館に連れてきています。それだけの、この足守の「除痘館」に対する洪庵の意気込みが感じられます。
 それはそうでしょう。疱瘡ですよ。当時、最も恐ろしい子供の病気なのです。よりによって、その疱瘡の菌を植え付けるのです。誰がそんなもの簡単に信頼しますか。疑うのが当たり前です。もし、失敗でもしようものなら、我子を死に追いやることになりかねないのですよ。当時は、疱瘡と言えば、それほどの難病だったのです。それが5000人の子が受けたのです。洪庵の種痘は、足守をはじめ、この地方では、驚くべき事ですが絶対の信頼を得たのです。