私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

お地蔵さんだけが知っている?

2006-10-05 19:19:14 | Weblog
 千日墓地を歩いていると、「おや、どうして?」と言うようなことや「あ、ここにこんな!」と驚くようなことが一杯落ちていました。
  
 歩いていて発見した事を2,3ご紹介してみます。

 まず、初めに行き当たったのが、曽祖父と孫のお墓があるのに、その間の祖父夫婦と親夫婦の墓が何処を捜しても見つからないのです。「徳政」夫婦と「輔政」夫婦の墓が見当たりません。養子に出した「光次郎」が不慮の死を遂げたために、敢えて、墓を造らなかったのでしょうか。「喜智」と言う字を捜したのですが、これも見つかりませんでした。また。「紀一郎」という墓もありませんでした。
 幕末の尊皇攘夷の波を諸に被った悲劇を、こんな田舎の墓地にも、語らぬ声として秋風が蕭々した哀愁を漂わせています。

 これも、元禄の映えを色濃く残した、ただ「男」としか名前が伝わっていないお坊様のお墓も多くの墓石の中に世を達観した如くに淋しくたっています。

 また、高雅(たかつねと読みます)の肖像画を描いた日本画家の三好雲仙の墓も、頼山陽や菅茶山の墓誌がある真野家の墓もありました。

 栄枯盛衰が、且現れ、且消えする人の世情を諸に語らしめている、時を超越した空間の中で、空を連れとして十分に遊びました。

 秋の風があたりを柔らかに通り過ぎています。
 

 墓から降りがけ、入り口に立っていらっしゃるお地蔵さんにお会いしました。そのお美しい微笑みかけていらっしゃるお顔に、夕陽が一杯に当って輝いていました。
 冥土は、自然の中にどこでもあるのだと思いました。

 最後に、ここは旧真金村です。この墓地には、宮内村の人々のお墓が沢山あります。
 よその村に墓を造るということがどうして出来たのでしょうか。
 これも不思議なことの一つです。

 又この墓地のある向山(又は板倉山)のある山を名越山と言います。向かいにある吉備の中山といつも争っていたのですが、勝った例がない、いつかはきっとその名を「越そう、越そう」と思って山の名前にしたと言えそうですが、実際はよくわかってはいません。文献がないのです。