私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

小雪物語―宮内遊女の雅

2012-06-26 17:21:57 | Weblog

 さて、又、小雪物語と離れますが、瀬山陽も書いている山陽道随一の遊興地でもあった江戸末期のこの備中宮内に付いて今日は、ご紹介します。

 「宮内」という言葉聞いたことが在りますか??この宮内は江戸期を通して日本でも有数の遊興地の一つとして数えられていた場所なのです。
 文献的記録をたどって行きますと、そこには、当時、2千人以上の遊女がいた遊郭地であったと言われています。今、その宮内を尋ねてみると「こんなに狭い場所によくも2千人の遊び女がいたなんて」と思われる様な狭い場所にです。でも、この宮内にある遊郭にいた女は、江戸の当時、他を圧するような、大変な格式というか、他所の遊女にはない誇りみたいなものを持っていたそうです。その一つは、ここにいる女は、多くはいなかったのではと思いますが、私の物語に出てくる小雪のような京の都からの流れ来た女性がいたと言われています。又、この宮内の遊女は、その年齢が高くなるにつれ、他所の出雲などの岡場所に移されるのだそうです。それだけ宮内の遊女は年齢的にも若く、京的素養を積んだ女が沢山いると評判になり繁昌したのです。百人一首などの和歌を詠んだり京舞を踊ったりするのはここでは普通のことでそんない珍しいことではなかったようです。むしろ、それが当たり前の世界だとも言われて、ここと訪れる人々から随分と持てはやされます。その為に、「やっぱり宮内の遊女は違う」と、ここを尋ねる全国からの旅人たちからも評価されています。なお、この宮内と並んで山陽道の大遊興であた鞆の浦や宮島の遊女でさへ、備中宮内の遊女には、一目も二目も置いていたと言われています。 
  それを証明するような書簡が残っています。それはこの宮内の素封家真野竹堂に宛てた藤井高尚の書簡です。この中で、高尚は宮内の米屋の理加や萬須に和歌を教えている書いています。又、彼女たちに茶の湯の作法も教えたとあります。
 このように、この宮内は、江戸末期当時、備中と言う甚だ鄙の地であったにも関わらず、随分と、京風の文化が此の地に広がっていたのです。遊び女にしてこれですから、まして藤井家の女たちを始めとして、吉備津神社関係等の多くの人達の中に、この和歌を初めとした歌舞伎、能、茶と言った雅なる文化的な生活様式が、日常の生活の一部となって入り込んでいたのです。その中、特に、和歌を中心とした人々の集まりが、大いに、この地方の文化を高めていたと言われます。
 そのような遊興地としての艶なる宮内に対して、和歌を中心とした雅の世界を此の地に培った中心人物と言えば、やはり「藤井高尚」を上げなくてはなりません。彼は教業館ばどの私熟も作って、特に、若い吉備津宮神官を初めとして多くの地域の好学の士を育てるために努力しています。また、松の屋、鶏頭樹園に於いてもこの地方の全体の文化の進展にも貢献しております。

 なお、この高尚の世界に付いては、また、別の日に取り上げようと思っていますが、こんなすごい人物が我が吉備津にいたと云うことは本当に驚くべき事だと思われます。
 
明日は又小雪の物語に戻ります。


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