◆4月6日
<新改訳第三版 ルカの福音書24:39-43>
わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。
* * *
イエスに触りたかった人の多さを改めて思う。病人は癒されたかったから切実だったろうが、それ以外でもミーハー根性の人が多々。歪んだ精神の私は(まぁ皆んなよくもぬけぬけと…)と思ってしまうが。それを考えると「主よ、わたしをお離れください。わたしは罪びとです」と言ったペテロ(ルカ5:8)に私はシンパシーを感じる。でもイエスはそんなペテロを弟子として召し出すのだな。
◆4月10日
民数記9章。律法の定め通りに過越の儀式を守れなかった人々は、後ろめたさ等に押し潰されず、モーセとアロンに直々に訴え出た(私達だって主を礼拝したくなかったわけではない、と)。するとモーセは主に祈り、主は定められた日のひと月後に献げ物をするので良いと仰った。モーセも硬直化した考えの持ち主でなかったし、神も柔軟だった。
◆4月10日
民数記11章。マナに飽きて肉が食べたいという民の不平に、モーセは正直に主に訴える。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう…なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう…私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。それとも、私が彼らを生んだのでしょうか。それなのになぜ、あなたは私に、『うばが乳飲み子を抱きかかえるように…わたしが彼らの先祖たちに誓った地に連れて行け。』と言われるのでしょう」と。また現実的に肉をどこから得るのか、とも神に詰め寄り、重荷が大き過ぎる、こんな目に遭わせるなら私を殺して下さい、と。マジ率直すぎ。モーセはある意味理詰め。民は徒歩の男子だけで六十万、神は、彼ら全員に肉を与え、一月の間食べさせると仰るけれど、羊の群れ、牛の群れをほふっても、足りる?海の魚を全部集めても、足りる?と。それに対し主は「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる」と。
◆4月10日
民数記11章後半。モーセの負担軽減のため70人の長老を任命しようと召集をかけるが、二人が宿営に残っていて参集せず。だが神は彼らにも御霊を注ぎ、二人も預言状態に。その報告を受けたモーセの一番弟子ヨシュアはモーセに「彼らをやめさせてください」と請う。だがモーセはヨシュアに「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに」と。モーセがそれだけ偉大だった、と考えるのは短絡的。神に特別に愛される素晴らしさを皆に味わってほしかったのでは
◆4月10日
ヨハネ福音書3章。洗礼者ヨハネの生き様に憧れる。『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である』(28節)と述べ、自身を花嫁を迎える花婿の友人に喩えて、花婿(イエス)の声を聞くだけで喜びに満たされると。ヨハネの「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」(30節)は本当にそう。私は日陰者でいいのだ、イエスの引き立て役でしかない、と
◆4月13日
今朝のゴミ出しBGMはネイサン・アウェアウの『One More Road』。ちょっと全体的にポップ過ぎるアルバムだけど、ネイサンの美声(地声からファルセットに駆け上がる時の滑らかさ)には溜め息。でもやっぱりハワイアン・フレーヴァーの漂ってる曲の方がネイサンの声が生きる気がする。
リチャード・マークスの「Now And Forever」のカバーもあった。〽︎ I will be your man……のところ聴いて、うーむと。イザヤ62:5「若者がおとめをめとるように あなたを再建される方があなたをめとり 花婿が花嫁を喜びとするように あなたの神はあなたを喜びとされる」にうっとりする女性信徒もいるが 。そして「イエスと結婚したい!」と目をキラキラさせて言ったり。それを聞くと私は正直(汚らわしい……)と思う。イエスは清いのだ。結婚なんてとんでもない、と。私自身はイエスの下僕でいいと思ってる。イエスの御用に使っていただけるだけで有難い(ルカによる福音書17:10)。
◆4月16日
割とちゃんと眠れて、静坐不能症(静臥不能症と言うべきか)も出なかった。祈って下さっていた方のことを思う。
* * *
イエスは群衆からも(ヨハネ福音書7:20)、ユダヤ人達からも(ヨハネ福音書8:48,:52)「悪霊につかれている」と言われたのだな。私が実際に悪霊に取り憑かれているのだとしても、イエス様が私の苦しみを解って下さっているし、いつも共にいて下さるから、私にはそれだけで充分
◆4月19日
<新改訳第三版 ヨハネの福音書9:36>
その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
* * *
見えなかった目を治していただいた人の言葉。(私は治して下さった方を知らない、でも信じられますように)で良いんだな。
◆4月19日
先週作業所で、聖書に関心あるお二人から「〜と聖書に書いてある」という言明を聞き、その間違いを糺した。おそらく牧師・神父・神学者など聖書に詳しい方が黙想や学究の末に得た知見を、お二人が聖書そのものと勘違いしたのだろう。牧師先生や神父様がご自分の生活や信徒さんの抱える問題のために神に必死で取りすがり得た考察は、確かに力があるけど、あくまで限定的なもの。それは御言葉そのものとは違う、と私は思う。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 ヨハネの福音書6:45>
預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
↓ ↓ ↓
私達は誰でも独りで聖書を学ぶのには限界がある。だから礼拝説教など人の学びに依拠せざるを得ないしその必要もある。でも神は、直々に主の許に学びに来るよう招いてるのでは。
◆4月21日
信徒にとっても天国へ行くって希望なのかな?私は正直わからない。私自身はイエスと一緒なら天国でも地獄でもいい。だがその点パウロは桁外れ
↓ ↓ ↓
<新共同訳ローマ9:3>
わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています
◆4月22日
<新改訳第三版 ヨハネの福音書15:3-4>*4月27日礼拝説教聖句
あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
* * *
マタイ7章の砂の土台と岩の土台の喩えは苦手だった。御言葉を行えてない感あったから。でもヨハネ15章読んで、御言葉の土台の上に生きるのは裁かれつつ怯えて暮らすのではないんだな、と初めて。御言葉にとどまる、って善行に励む、と言うより、いつもイエスの御顔を仰ぎイエスに聴いていくうちに、行いが育まれていくことなんだな、と。じゃなかったら主の足もとで御言葉に聞き入っていたマリヤに苛立つマルタに、マリヤから良い方を取り上げるな、とは仰らなかったろう(ルカ福音書10:38-42)
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 ヨハネの福音書8:31-32>
そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
<新改訳第三版 ルカの福音書24:39-43>
わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。
* * *
イエスに触りたかった人の多さを改めて思う。病人は癒されたかったから切実だったろうが、それ以外でもミーハー根性の人が多々。歪んだ精神の私は(まぁ皆んなよくもぬけぬけと…)と思ってしまうが。それを考えると「主よ、わたしをお離れください。わたしは罪びとです」と言ったペテロ(ルカ5:8)に私はシンパシーを感じる。でもイエスはそんなペテロを弟子として召し出すのだな。
◆4月10日
民数記9章。律法の定め通りに過越の儀式を守れなかった人々は、後ろめたさ等に押し潰されず、モーセとアロンに直々に訴え出た(私達だって主を礼拝したくなかったわけではない、と)。するとモーセは主に祈り、主は定められた日のひと月後に献げ物をするので良いと仰った。モーセも硬直化した考えの持ち主でなかったし、神も柔軟だった。
◆4月10日
民数記11章。マナに飽きて肉が食べたいという民の不平に、モーセは正直に主に訴える。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう…なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう…私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。それとも、私が彼らを生んだのでしょうか。それなのになぜ、あなたは私に、『うばが乳飲み子を抱きかかえるように…わたしが彼らの先祖たちに誓った地に連れて行け。』と言われるのでしょう」と。また現実的に肉をどこから得るのか、とも神に詰め寄り、重荷が大き過ぎる、こんな目に遭わせるなら私を殺して下さい、と。マジ率直すぎ。モーセはある意味理詰め。民は徒歩の男子だけで六十万、神は、彼ら全員に肉を与え、一月の間食べさせると仰るけれど、羊の群れ、牛の群れをほふっても、足りる?海の魚を全部集めても、足りる?と。それに対し主は「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる」と。
◆4月10日
民数記11章後半。モーセの負担軽減のため70人の長老を任命しようと召集をかけるが、二人が宿営に残っていて参集せず。だが神は彼らにも御霊を注ぎ、二人も預言状態に。その報告を受けたモーセの一番弟子ヨシュアはモーセに「彼らをやめさせてください」と請う。だがモーセはヨシュアに「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに」と。モーセがそれだけ偉大だった、と考えるのは短絡的。神に特別に愛される素晴らしさを皆に味わってほしかったのでは
◆4月10日
ヨハネ福音書3章。洗礼者ヨハネの生き様に憧れる。『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である』(28節)と述べ、自身を花嫁を迎える花婿の友人に喩えて、花婿(イエス)の声を聞くだけで喜びに満たされると。ヨハネの「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」(30節)は本当にそう。私は日陰者でいいのだ、イエスの引き立て役でしかない、と
◆4月13日
今朝のゴミ出しBGMはネイサン・アウェアウの『One More Road』。ちょっと全体的にポップ過ぎるアルバムだけど、ネイサンの美声(地声からファルセットに駆け上がる時の滑らかさ)には溜め息。でもやっぱりハワイアン・フレーヴァーの漂ってる曲の方がネイサンの声が生きる気がする。
リチャード・マークスの「Now And Forever」のカバーもあった。〽︎ I will be your man……のところ聴いて、うーむと。イザヤ62:5「若者がおとめをめとるように あなたを再建される方があなたをめとり 花婿が花嫁を喜びとするように あなたの神はあなたを喜びとされる」にうっとりする女性信徒もいるが 。そして「イエスと結婚したい!」と目をキラキラさせて言ったり。それを聞くと私は正直(汚らわしい……)と思う。イエスは清いのだ。結婚なんてとんでもない、と。私自身はイエスの下僕でいいと思ってる。イエスの御用に使っていただけるだけで有難い(ルカによる福音書17:10)。
◆4月16日
割とちゃんと眠れて、静坐不能症(静臥不能症と言うべきか)も出なかった。祈って下さっていた方のことを思う。
* * *
イエスは群衆からも(ヨハネ福音書7:20)、ユダヤ人達からも(ヨハネ福音書8:48,:52)「悪霊につかれている」と言われたのだな。私が実際に悪霊に取り憑かれているのだとしても、イエス様が私の苦しみを解って下さっているし、いつも共にいて下さるから、私にはそれだけで充分
◆4月19日
<新改訳第三版 ヨハネの福音書9:36>
その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
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見えなかった目を治していただいた人の言葉。(私は治して下さった方を知らない、でも信じられますように)で良いんだな。
◆4月19日
先週作業所で、聖書に関心あるお二人から「〜と聖書に書いてある」という言明を聞き、その間違いを糺した。おそらく牧師・神父・神学者など聖書に詳しい方が黙想や学究の末に得た知見を、お二人が聖書そのものと勘違いしたのだろう。牧師先生や神父様がご自分の生活や信徒さんの抱える問題のために神に必死で取りすがり得た考察は、確かに力があるけど、あくまで限定的なもの。それは御言葉そのものとは違う、と私は思う。
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<新改訳第三版 ヨハネの福音書6:45>
預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
↓ ↓ ↓
私達は誰でも独りで聖書を学ぶのには限界がある。だから礼拝説教など人の学びに依拠せざるを得ないしその必要もある。でも神は、直々に主の許に学びに来るよう招いてるのでは。
◆4月21日
信徒にとっても天国へ行くって希望なのかな?私は正直わからない。私自身はイエスと一緒なら天国でも地獄でもいい。だがその点パウロは桁外れ
↓ ↓ ↓
<新共同訳ローマ9:3>
わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています
◆4月22日
<新改訳第三版 ヨハネの福音書15:3-4>*4月27日礼拝説教聖句
あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
* * *
マタイ7章の砂の土台と岩の土台の喩えは苦手だった。御言葉を行えてない感あったから。でもヨハネ15章読んで、御言葉の土台の上に生きるのは裁かれつつ怯えて暮らすのではないんだな、と初めて。御言葉にとどまる、って善行に励む、と言うより、いつもイエスの御顔を仰ぎイエスに聴いていくうちに、行いが育まれていくことなんだな、と。じゃなかったら主の足もとで御言葉に聞き入っていたマリヤに苛立つマルタに、マリヤから良い方を取り上げるな、とは仰らなかったろう(ルカ福音書10:38-42)
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<新改訳第三版 ヨハネの福音書8:31-32>
そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」