普段ならお酒をちびちび飲むけれど行くあてもない午後八時半
一ヶ月ほど前だったろうか、運転して帰ってくるとうちの駐車場に缶が二つ転がっているのが見えた。それでとりあえず駐車場の前に停車し、(本当なら家のゴミ箱に捨てるべきなのだろうが)我が家の向かいの美容院の自販機の隣にあるゴミ箱のところに缶を持って行った。ゴミ箱は缶で満杯になっていた。それでも無理矢理ねじ込もうとして投入口のところの缶をよく見ると、ビールの缶だった。当然その自販機で売られているものではない。自分が横着してうちの駐車場の缶ゴミをそこに入れたのは差し置いて、何だか苦々しい気持ちになった一件であった。
4月25日、東京・大阪など4都府県に緊急事態宣言が出され、酒類提供の飲食店へ休業要請がされた。しかし緊急事態宣言発出後ある程度の感染者減が見られても、宣言解除で街に人が溢れると再び感染者が激増し……ということを繰り返していると、長く行動を制限される中でのストレスも爆発し、半ばやけばちに刹那的にアルコールに走る心情も解らなくはない。蔓延防止措置などが講じられても人出が収まらず、都心の繁華街で路上飲みをして暴れる人達を槍玉に挙げるのもやや躊躇われるのが、昨今ではないだろうか。
掲出歌の作者はお酒がお好きなようである。だが時短営業で飲食店を早々に放り出されてしまうこのご時世、明るく鬱憤を晴らす場もなく、ストレスは内面化し抑圧される一方だ。
世の中ではキリスト教に禁欲的なイメージを抱いている方が多いようだが、それは少し違う。コヘレトの言葉3章12〜13節に「わたしは知った 人間にとって最も幸福なのは 喜び楽しんで一生を送ることだ、と 人だれもが飲み食いし その労苦によって満足するのは 神の賜物だ、と。」とあり、またコヘレトの言葉10章19節には「食事をするのは笑うため。酒は人生を楽しむため。銀はすべてにこたえてくれる」という御言葉もある。またマタイによる福音書11章19節には、「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」と、イエスがよく弟子達や友人、民衆とお酒を飲んでいた様を表す言葉も見受けられる。
しかしイエスが何の希望もなく貪食・鯨飲に耽っていたのかと考えると、それも違うように思う。ヨハネによる福音書4章31〜34節に〈その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。〉というシーンがあるが、これは五度の結婚の果て今連れ添っている男性は夫君ではないサマリアの女性に御心を伝えた後、心満たされていたイエスの言葉である。
コロナウイルス感染症が収束するのはいつなのか——それは誰にも分からない。いつ止むとも分からない不安・怒り・苦しみで私達は疲弊している。そのような中にあってもしクリスチャンが堂々として見えるとしたら、先のサマリアの女性にイエスが語った御言葉が裡に生きているからに他ならない。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書4章 13〜14節)
深水遊脚(2021年4月25日のTwitterより)
一ヶ月ほど前だったろうか、運転して帰ってくるとうちの駐車場に缶が二つ転がっているのが見えた。それでとりあえず駐車場の前に停車し、(本当なら家のゴミ箱に捨てるべきなのだろうが)我が家の向かいの美容院の自販機の隣にあるゴミ箱のところに缶を持って行った。ゴミ箱は缶で満杯になっていた。それでも無理矢理ねじ込もうとして投入口のところの缶をよく見ると、ビールの缶だった。当然その自販機で売られているものではない。自分が横着してうちの駐車場の缶ゴミをそこに入れたのは差し置いて、何だか苦々しい気持ちになった一件であった。
4月25日、東京・大阪など4都府県に緊急事態宣言が出され、酒類提供の飲食店へ休業要請がされた。しかし緊急事態宣言発出後ある程度の感染者減が見られても、宣言解除で街に人が溢れると再び感染者が激増し……ということを繰り返していると、長く行動を制限される中でのストレスも爆発し、半ばやけばちに刹那的にアルコールに走る心情も解らなくはない。蔓延防止措置などが講じられても人出が収まらず、都心の繁華街で路上飲みをして暴れる人達を槍玉に挙げるのもやや躊躇われるのが、昨今ではないだろうか。
掲出歌の作者はお酒がお好きなようである。だが時短営業で飲食店を早々に放り出されてしまうこのご時世、明るく鬱憤を晴らす場もなく、ストレスは内面化し抑圧される一方だ。
世の中ではキリスト教に禁欲的なイメージを抱いている方が多いようだが、それは少し違う。コヘレトの言葉3章12〜13節に「わたしは知った 人間にとって最も幸福なのは 喜び楽しんで一生を送ることだ、と 人だれもが飲み食いし その労苦によって満足するのは 神の賜物だ、と。」とあり、またコヘレトの言葉10章19節には「食事をするのは笑うため。酒は人生を楽しむため。銀はすべてにこたえてくれる」という御言葉もある。またマタイによる福音書11章19節には、「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」と、イエスがよく弟子達や友人、民衆とお酒を飲んでいた様を表す言葉も見受けられる。
しかしイエスが何の希望もなく貪食・鯨飲に耽っていたのかと考えると、それも違うように思う。ヨハネによる福音書4章31〜34節に〈その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。〉というシーンがあるが、これは五度の結婚の果て今連れ添っている男性は夫君ではないサマリアの女性に御心を伝えた後、心満たされていたイエスの言葉である。
コロナウイルス感染症が収束するのはいつなのか——それは誰にも分からない。いつ止むとも分からない不安・怒り・苦しみで私達は疲弊している。そのような中にあってもしクリスチャンが堂々として見えるとしたら、先のサマリアの女性にイエスが語った御言葉が裡に生きているからに他ならない。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書4章 13〜14節)