メモワール 写真家・古屋誠一との二〇年 | |
小林紀晴 | |
集英社 |
小林紀晴『メモワール』を読む。
新聞書評やテーマの重さから、ものすごい本だというのは想像していた。それだけに、うちのめされるのが怖くて読む気が起きなかったが、読んでよかった。ものすごい本だった。写真家はなぜ写真をとるのかを問いつめた作品だ。
写真家である著者は、同じく写真家である古屋誠一を二十年にわたりおいかけた。出発点は古屋はなぜ自殺した妻の最後の姿を写真に収めたのか知りたかったからだ。
そこにあるのは業としかいいようのない写真家の呪われた目だ。当然、同じ写真家である筆者の目も呪われている。プロローグとエピローグでは、9・11と3・11の現場に赴く写真家のエピソードも織り交ぜられているが、彼らもみんな呪われた目をもっている。妻の生と死に執拗にこだわり続ける古屋を通して、筆者はおのれの、そして写真家の呪われた目に深い考察を向ける。
文体もテーマにぴったり、こんな文体ははじめて読んだ。写真を一枚一枚きざむように、筆者は古屋の動きを丹念に記述する。その動きが古屋の内面を浮かび上がらせるようで、なんだか怖いのだ。簡潔で重苦しい。コツン、コツンと病院の廊下で靴音がつめたく響くような文章だ。写真家の文章とはかくもおそろしいものなのか。
こういう本を読むと、どうしても自分のことにひきよせて考えてしまう。文章を書くことも、表現であるという点で考えると写真とかわらない。3・11の時、私はカナダにいたが、被災地を訪れたいという欲求に悩まされた。あれは被災地をルポすることで、何かを表現したいという欲求があったのだろうか。
登山も冒険も表現であることには変わらない。私が危険を顧みず衛星電話もGPSも持たずに北極に行くのは、それにより自分の世界観が表現できると考えているからだ。友人の舐め太郎氏は那智の滝を登って逮捕され、社会的制裁を受けたが、それもこれも那智の滝を登ることが彼らの表現だったからだ。表現とは狂気をはらむものなのである。
しかし写真家ほど自分が呪われていると感じる表現はないのかもしれない。カメラは暴力だし、他人の領域にずかずかと踏み込んでいかざるを得ないから。
今年のナンバー1決定! と思ったら、去年の本だった。そういえば年末年始は北極に行ってたんだった。