紋切型社会――言葉で固まる現代を解きほぐす | |
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朝日出版社 |
武田砂鉄『紋切型社会』を読む。
唐突だが、著者の武田さんは河出書房新社の元編集者で、一度、仕事で絡んだことがあった。そのときに彼の書いた文章を読んで、おそろしく筆力のある編集者だな、あんなに若くて、こんなに筆力があったら社員編集者なんかやめて、そのうち独立して自分で文章書きたくなるだろうな、などと勝手に想像していたら、案の定まもなく退職の知らせが届き、私は河出との唯一の接点を失った。やっぱり辞めましたかとメールを出すと、じつは社員時代から武田砂鉄という筆名で文章を発表していたんですとの返事がとどき、さもありなんと妙に納得したものである。
その武田さんの初の単行本が、私の留守中に自宅に送られてきたというので、ほかの荷物と一緒にシオラパルクに送ってもらった。タイトルをみても想像がつくとおり、紋切型の言葉をいくつも集めて、それを突破口に、思考を停止して安易に生ぬるい全体的な空気に流されたがる現代の日本の風潮を鋭く批評した作品だ。本人は「はじめに」の序文のなかで揚げ足を取ってみたみたいなことを書いているが、全然、揚げ足ではない。正面からばっさばっさと斬っている。最近は読者に迎合する本ばかりが売れ、読者も自分のことを癒してくれたり、慰めてくれたりする本ばかりを望んでいる節があるが、当たり前ですが、この本にはそんな遠慮は一切ありません。私も数カ所で斬られて、血を吹き出し、苦しい思いをしました。
登山の分野でもそうだが、最近は急速に自由であることが敬遠されている。自由であるということは自分で思考し判断しなければならず、それが面倒くさいからだ。自由な状態よりも、何者かに緩やかに管理されている状態のほうが人間としては楽なわけで、八ヶ岳に人が殺到するところなどを見ると、その管理化された状態の希求が近年は特につよくなっていると感じる。原因は分からんけど。紋切型のフレーズを使うということは、自由な思考を忌避して、管理された状態に自ら落とし込むということであろう。
そういえば新聞記者をしていたとき、私と同世代か下の世代のなかに、自分の言葉を持っている記者がまったくといっていいほど見当たらず、それが不思議だった。言葉とは背骨から出てくるものである。どんなに独りよがりであっても、言葉は背骨がないと出てこない。みんな記者としては私より優秀だったが、背骨のある者はいなかったわけだ。紋切型のフレーズが安直に使われているとするなら、それは日本人から背骨が無くなっていることの証である。本書に対する唯一の懸念は、みんな背骨がなくなってぐにゃぐにゃだから、案外、この本で斬られても、ぐにゃぐにゃっとして何も感じないかもしれないということだ。
それにしても、こういう本の感想文を書くと、「角幡さん、紋切型ですねえ」とか言われそうで、それがなんかいやだ。
話は全然かわるけど、照の富士が優勝したなあ。