ホトケの顔も三度まで

ノンフィクション作家、探検家角幡唯介のブログ

山岳ヘリ救助有料化と自由の問題

2010年10月20日 19時40分08秒 | 雑記
登山者にヘリ救助の費用負担を求める動きが広がっているらしい。今年、秩父山中で遭難救助中の防災ヘリが墜落した埼玉県では、県議会で条例案を提出する動きがあった。現在、山の遭難者が県警や県の防災ヘリで救助された場合、救助にかかった費用は原則、公費で負担されている。だが登山ブームの広がりから、疲れて歩けなくなっただけでヘリコプターを呼ぶようなお粗末な遭難が増加し、有料化するべきだとの議論が盛んになってきた。今回の動きは、そうしたお粗末な遭難に歯止めをかけようという動きだ。しかし、どの登山がOKで、どの登山がお粗末だと行政が価値判断することは、危険だと思う。

原則的には、日本政府および地方自治体は、世界中のどこであっても、命の危険にさらされている日本国民がいたら、税金を投入してその生命を守らなければならない。それがたとえイラクでイスラム原理主義団体に拉致された日本人旅行者であっても、秩父の荒川水系ブドウ沢で遭難した女性であっても同じである。わたしたちは日本国の政府、地方自治体に税金を払い、国民に定められた義務を果たす善良な市民である(もちろん、そうではない人も時々いる)。政府・自治体には善良な国民の生命、財産を守る義務がある。

またわたしたち個人には表現や行為の自由が、公共の福祉に反しない限り、認められている。その個人の自由に対して、行政が、良い悪いの価値判断をすることはできないし、してはならないはずである。言うまでもなく、登山もしかり。しっかりとした計画や装備で山を登るのも自由だし、ハイヒールとジーパンで山に登るのも自由、フルチンで森をさまようのも自由である(ただしこれは公然わいせつ罪にひっかかり、公共の福祉に反する可能性がある)。その結果、死んだり、死にそうになったりするのも自由だ。それは他のアウトドアスポーツ、例えばヨットやラフティングでも同じだし、ボクシングやサッカーなどのスポーツ行為、さらには絵画や音楽、言論といった表現活動の自由とも根底は一緒である。

わたしが救助ヘリの有料化で問題だと思うのは、そうした個人の自由に対する価値判断に、行政が介入する可能性があるという点だ。今回、見送られたが、埼玉県議会に提出される予定だった条例案では、県はすべての遭難者に費用負担を請求するわけではない、としていたという。つまり、お粗末な登山で遭難したケースにだけ負担を求めるということだったようだ。しかし、お粗末かお粗末でないかを、どうやって判断するつもりだったのだろう。そこがすごく疑問である。

わたしの見解では、もしハイヒールとフリルのついたスカートで茶髪の若い女性が山に登ったとしても、本人にとってそれが意味のある行為であるのなら、それはお粗末な登山とはいえない。たとえそれがエベレストであってもである。そのリスクを理解しないで、単なる無知でやったのならお粗末かもしれないが、その微妙な価値判断を行政側にゆだねるのは危険である。もしサバイバル登山家服部文祥さんが、まともな装備も持たず秩父山中で滑落し、救助を要請したとしても、お粗末な登山とは言い難いはずだ。本人に主義があってやっているのだから。しかし埼玉県はまともな装備も持たないお粗末な登山と判断し、服部さんに費用負担を求めるかもしれない。

要するに、どの行為はいい、どの行為はダメと、行政は個人の表現や行為に対して価値判断することはできない。中身で差をつけてはならない。だから、すべての遭難者は公費で救助されなければならない。この原則は重要だ。救助ヘリ有料化の動きには、民主主義社会の根幹をなす個人の自由への侵害という、厄介な問題が含まれている。だからマスコミは安易にこの動きに同調してはいけないはずなのだが、残念ながら、あまり大きく報道されなかった。

とはいえ、気軽にヘリ救助を要請する一部登山者の意識の低さに問題があるのもたしかである。登山者側が自発的にレスキュー基金やNPOなどを設立し、費用を自主的に持ち寄って救助組織を運営するのが一番分かりやすい。





コメント (4)
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