臓器移植法改正をめぐる国会の論議がにわかに活発化してきた。現行法が禁じている14歳未満の子どもの移植を可能にしようというのが大きな狙いだ。
移植法が施行されて10年、この間に脳死者から臓器提供を受けた患者は計345人。移植ネットワークなどはこの数字を「きわめて少数」と述べ、とりわけ子どもが移植する機会がないことを不当と断じている。
臓器移植によってしか命を永らえることができない患者や家族の苦悩は想像に余りある。いま臓器移植を希望している患者は1万2千人に上っているのに対して、実際に提供されるのは年間100件前後だ。多くの人が絶望にさいなまれていることになる。
こうした現状を何とかしようというのが、移植法改正の動きである。A~Cの3案に加えて新たな案も出てきた。「政治の無策」を問われるのが怖いのだろう。しかし、国会議員らはどこまで本気なのか。メディアもにわかに移植法論議を取り上げているが、こちらも相変わらずの「流れ任せ」ではないのか。
共同が5日配信したアンケートを見ると、そう疑わざるを得ない。
《改正機運が高まっている臓器移植法について、共同通信社は4月下旬から全国会議員を対象にしたアンケートを実施し、今国会での改正実現に回答者の83%と圧倒的な支持が集まった。回答したのは全議員の約20%だった。
改正の内容に関して賛成者に聞いたところ、現行法では15歳以上に限定されている脳死による臓器提供の年齢制限について、72%が撤廃に賛成で、子どもへの移植に道を開く改正が必要との認識が広がっていることが分かった》=共同=
回答率が20%のアンケートで「子どもへの移植に道を開く改正が必要との認識が広がっていることが分かった」と結論付ける神経には驚く。8割が答えなかった点にこそ問題の本質が潜んでいるのだ。同時にこの回答率の低さは、共同などのメディアが、国会議員ふぜいにも相手にされなくなっていることを物語っている。よくもまあ、こんなものを臆面もなく配信できたものだ。
読売は6日付けの社説に「国内で完結すべき命のリレー」の見出しを掲げてこう書く。「死生観の絡む、難しい問題である。だが、これからは海外で臓器がもらえなくなることははっきりしている。国内だけで命のリレーをどう形成するのか、もはや答えを先送りすることはできまい」。
「命のリレー」などという情緒的な言葉で議論をごまかしてはいけない。生体移植以外の臓器の移植は、つまるところ「死を待つ医療」である。こんな医療の普及が人類の幸せにつながるのだろうか。
病み、老い、いつかは誰もが死に至る。逃れようがない。この現実を直視することから始めねばならない。先端医療を待つ難病患者がいる。医師のいない山間の村では、風邪をこじらせて肺炎を併発、町の病院に担ぎ込まれたときには手遅れといったケースも続出している。
移植法の改正案を「まじめに」論議してもらうのは結構だが、医師と医療機関の偏在是正はさらに急を要する。かっこいいこと、時流に乗ったことにだけ焦点を当てていては、この国の下降スパイラルは止まらない。
移植法が施行されて10年、この間に脳死者から臓器提供を受けた患者は計345人。移植ネットワークなどはこの数字を「きわめて少数」と述べ、とりわけ子どもが移植する機会がないことを不当と断じている。
臓器移植によってしか命を永らえることができない患者や家族の苦悩は想像に余りある。いま臓器移植を希望している患者は1万2千人に上っているのに対して、実際に提供されるのは年間100件前後だ。多くの人が絶望にさいなまれていることになる。
こうした現状を何とかしようというのが、移植法改正の動きである。A~Cの3案に加えて新たな案も出てきた。「政治の無策」を問われるのが怖いのだろう。しかし、国会議員らはどこまで本気なのか。メディアもにわかに移植法論議を取り上げているが、こちらも相変わらずの「流れ任せ」ではないのか。
共同が5日配信したアンケートを見ると、そう疑わざるを得ない。
《改正機運が高まっている臓器移植法について、共同通信社は4月下旬から全国会議員を対象にしたアンケートを実施し、今国会での改正実現に回答者の83%と圧倒的な支持が集まった。回答したのは全議員の約20%だった。
改正の内容に関して賛成者に聞いたところ、現行法では15歳以上に限定されている脳死による臓器提供の年齢制限について、72%が撤廃に賛成で、子どもへの移植に道を開く改正が必要との認識が広がっていることが分かった》=共同=
回答率が20%のアンケートで「子どもへの移植に道を開く改正が必要との認識が広がっていることが分かった」と結論付ける神経には驚く。8割が答えなかった点にこそ問題の本質が潜んでいるのだ。同時にこの回答率の低さは、共同などのメディアが、国会議員ふぜいにも相手にされなくなっていることを物語っている。よくもまあ、こんなものを臆面もなく配信できたものだ。
読売は6日付けの社説に「国内で完結すべき命のリレー」の見出しを掲げてこう書く。「死生観の絡む、難しい問題である。だが、これからは海外で臓器がもらえなくなることははっきりしている。国内だけで命のリレーをどう形成するのか、もはや答えを先送りすることはできまい」。
「命のリレー」などという情緒的な言葉で議論をごまかしてはいけない。生体移植以外の臓器の移植は、つまるところ「死を待つ医療」である。こんな医療の普及が人類の幸せにつながるのだろうか。
病み、老い、いつかは誰もが死に至る。逃れようがない。この現実を直視することから始めねばならない。先端医療を待つ難病患者がいる。医師のいない山間の村では、風邪をこじらせて肺炎を併発、町の病院に担ぎ込まれたときには手遅れといったケースも続出している。
移植法の改正案を「まじめに」論議してもらうのは結構だが、医師と医療機関の偏在是正はさらに急を要する。かっこいいこと、時流に乗ったことにだけ焦点を当てていては、この国の下降スパイラルは止まらない。