酔眼独語 

時事問題を中心に、政治、経済、文化、スポーツ、環境問題など今日的なテーマについて語る。
 

裁判員制度が始まる

2009-05-21 04:16:27 | Weblog
 悪評紛々の裁判員制度がきょうから始まる。直近の毎日新聞の世論調査では、「できれば裁判員になりたくない」が過半数を占めている。「ぜひ、裁判員をやってみたい」などと答える方がおかしい。

 人が嫌がることを強要するには、よほどの事情がなければいけない。税金がなければ国や自治体の経営が成り立たない。だから、渋々でも税金は払う。裁判員制度にこのような理屈があるのかどうか。

 朝日新聞や産経新聞をはじめ、メディアはなんだかんだと言いながら「公の精神を育てる好機」だの「民主主義を成熟させる」などと制度を礼賛している。

 《欧米諸国には、市民革命などを経て、国民が陪審員や参審員として直接、裁判に参加する歴史がある。いまや国民の司法参加は先進国の標準となり、韓国も昨年から国民参与制の試行を始めた。

 プロが行う裁判は安定性や一貫性を強みとする。だが、とくに90年代以降の経済社会の変化、犯罪の多様化が逆にそうした裁判の閉鎖性、後進性を浮き彫りにした。そこで法曹人口の増員をはじめとする司法制度改革が始まった。重い犯罪を対象にする裁判員制度の導入は、その太い柱である》=朝日com=

 《国民が1審の刑事裁判に参加する「裁判員制度」が21日からスタートする。裁判員は裁判官と対等の立場で有罪か無罪か、量刑をどうするかを決める。国権の一つである司法権の行使に国民が参加して重要な役割を担う。

 わが国司法制度の大転換だ。何よりも円滑な運用が求められる。国民の協力がなければ立ちゆかない。裁判員となる国民の負担軽減にも常に気を配らなくてはならない。こうした点とともに、ともすれば「自己本位」と批判される日本人が「公の精神」を取り戻す好機にしたい》=産経ニュース=

 制度発足で事件取材がガタガタになりそうなのに、能天気なことだ。しかも、矛盾したことを平気で述べている。例えば朝日。「刑罰は国家権力の行使そのものだ。その決定に普通の人々が加わる」。国の責任を個人に推し被せていいのか。国民すべてが権力構造に組み込まれる体制が妥当なのか。大いに疑問だ。

 外国では広く陪審が行われている。日本の裁判にも市民を参加させなくては、とも言う。ペテン的議論である。陪審と裁判員は似て非なるものどころか、全く違うといっていい。陪審は有罪か無罪かを決するだけで、量刑の判断はしない。評議は陪審員だけで行われ、裁判官は加わらない。

 プロの裁判官が評議をリードし、量刑まで決めるわが国の裁判員制度はきわめていびつだ。裁判官の資質に問題があるから裁判員裁判に、という趣旨にも反する。

 また、朝日社説は「検察審査会を経験した人のアンケートでは大半が『やってよかった』と答えた」と書いている。検察審査会と裁判員裁判を同列視できるのか。検察審査会に係る事案の多くは汚職に代表される公務員絡みだ。裁判員裁判で審理する凶悪事件が不起訴になるなどという事態はあり得ない。

 《忘れてならないのは、司法の改革を裁判員制度の枠にとどめてはならないということだ。(中略)法廷で交わされる専門語や手続きは複雑で、傍聴する市民は蚊帳の外。やっと出た判決は、行政には理解があるのに、市民感覚からかけ離れた論理が目立つ。そのうえ憲法判断となるととたんに慎重になる。

 日本の民事・行政訴訟の実態は、長くこのようなものだった。国民の司法参加は、人権侵害や公害、法令や行政行為へのチェックを担う民事・行政訴訟でこそ発揮されるべきだ。司法改革第2幕へとつなげたい》=朝日com=

 あたかも、「第2幕」があるかのような書きっぷりだ。「国民の司法参加は、人権侵害や公害、法令や行政行為へのチェックを担う民事・行政訴訟でこそ発揮されるべきだ」と言うのはそのとおりだ。それなら、なぜ重罰の刑事事件から始まったのかに対して疑問を呈するのが筋だろう。民事や行政訴訟に市民感覚など持ち込まれては困るから、ふさわしくない刑事事件にしたのだ。

 しかも、この制度は国民を刑法体系で統合する役目も果たす。一石二鳥というわけだ。こんなことで民主主義が進展するなどとは、曲解もはなはだしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする