東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

荷風日の丸の旗を購う

2016年07月24日 | 荷風

永井荷風(1932)




永井荷風の日記「断腸亭日乗」の昭和10年(1935)2月3日に次の記述がある。

「二月初三。前夜の微雨いつか雪となる。午後に至って歇む。終日困臥為すことなし。燈刻銀座に行き銀座食堂に飰す。三越百貨店に入り日の丸の旗 竹竿つき一円六十銭 を購ふ。余大久保の家を売りてより今日に至るまでいかなる日にも旗を出せし事なく、また門松立てし事もなし。されど近年世のありさまを見るに[此間約三字切取、約十字抹消]祭日に旗出さぬ家には壮士来りて暴行をなす由屢耳にする所なり。依って万一の用意にとて旗を買ふことになせしなり。余はまた二十年来フロツコートを着たることなし。礼服を着用せざる可からざる処へは病と称して赴くことなかりしなり。余は慶応義塾教授の職を辞したる後は公人にあらず、世を捨てたる人なれば、礼服をきる必要はなきわけなり。されどこれも世の有様を見るに、わが思ふところとは全く反対なれば残念ながら世俗に従ふに若かずと思ひ、去月銀座の洋服店にてモーニングコートを新調せしめたり。代金九十余円なり。」

荷風は、この日、夕方になってから銀座に出かけ、夕食をとった後、三越に行き日の丸の旗を購入した(竹竿つきで一円六十銭)が、その理由がおかしい。大久保の家を売ってから今日に至るまでいかなる日にも旗を出すことはなく、また門松を立てた事もないが、この頃祭日に旗を出さない家に壮士が来て乱暴を働くことをよく耳にするので、万一の用意に買ったというのである。荷風はじつに用意のよい人であったが、そういう乱暴狼藉を働く者をもっとも嫌ったせいでもある。

昭和10年(1935)のことであるが、同年に美濃部達吉の天皇機関説を攻撃する事件が起き、次の年(1936)に2・26事件が起き、その次の年(1937)7月に盧溝橋で日中両軍が衝突し、12月には日本軍が南京を占領している。

壮士とは、血気盛んな男、政治運動に関わる書生などの男、一種のごろつき、などの意味があるが、いま、あまりきかない言葉である。祝日に日の丸の旗を出さなくともそんな男が押しかけてくることもない。祝日に日の丸の旗を出す家などほとんど見かけたことがなく、もう戦前の古いことと思ったが、ちょっと考えると、そうではなく、いま、その壮士の役は、自治体の教育委員会が担っている。もっともこちらは、国歌斉唱の方で、卒業式などの学校行事のとき、国旗に向かって起立して国歌を斉唱することを生徒や教師に強制している。時々、教師が起立などを拒否したという理由で教育委員会が懲戒処分をし、その処分の取り消しなどを求める訴訟が起き、その裁判の判決が報道される。起立して国歌を斉唱することを強制するのであるから、荷風の時代と場所がちょっと違うだけで本質的に同じである。その頃はごろつきの男が押しかけて来て乱暴をしたが、この頃は教育委員会が懲戒処分という手段によって乱暴をする。

教師の国歌斉唱起立拒否というのは、歴史的に特に第2次世界大戦のとき(それにいたるまでに)君が代や日の丸が象徴的に果たした役割や戦争に加担した教育体制を批判的にとらえる見解・思想に基づく場合がほとんどと思われる。それにはもっともな理由があるので、その思想を尊重し、国歌斉唱起立拒否を認めるべきである。

ところで、国歌斉唱が行われる場に起立しない教師や生徒がいたとしても、なんの問題も生じないことは自明である。学校長や教育委員会などがいたずらに問題を大きくしているだけではないのか。国歌斉唱が教育現場に教師の懲戒処分という大きな問題を持ち込んで対処しなければならないほどの重要なテーマとはどうしても思えない。教育行政に恣意的な意図が感じられるが、無駄なことである。

吉本隆明「背景の記憶」カバー(宝島社)




吉本隆明が小学生のとき看護婦との交流を回想した「小学生の看護婦さん」(「背景の記憶」所収)という随筆に興味深い記述があるので、以下、引用する。

『そういう看護婦さんの一人は、祭日の式典で、その頃慣例になっていた"御真影"(天皇の写真)遙拝のとき決して敬礼しなかった。最敬礼のとき、うわ眼つかいで様子を見まわすと、その看護婦さんだけが、いつも静かに頭を下げずにいた。そのころは、少しけげんに思っただけだったが、後年考えてみると、確固としたキリスト教の信者だったのだとおもう。戦後になってから、その面影の看護婦さんから異性の優しさ以外のものも受けとった。』

吉本は、大正13年(1924)11月生まれであるので、荷風の日乗と同じ昭和10年(1935)の前後のことであろうが、驚くべきは、戦前の学校教育の中でもっとも厳格に行われたに違いない「御真影」遙拝のとき、頭を下げず敬礼をしない人がいたことである。天皇の肖像写真が学校の火事で焼失したというだけで、校長が自殺をした時代のことであるから、かなり勇気のあるふるまいである。「いつも」静かに頭を下げずにいた、とあるので、吉本少年は、何回か同じシーンを目撃したのであろうが、それでも式典は問題なく進んでいるようである。

「戦後になってから異性の優しさ以外のものも受けとった」と記しているが、個人の信仰の強さやその信仰の背景に思いをめぐらせたのであろうか。「確固としたキリスト教の信者」の存在は、戦後の吉本に少なからず影響を与えたように思える。聖書を読み、教会に通い、さらには原始キリスト教の成立を反逆の倫理から論じた「マチウ書試論」を書いている。確固とした存在が吉本をして聖書や教会に向かわせるきっかけになったのかもしれない。

自分の信仰から天皇の肖像写真などに敬礼できない。現在の問題では、自分の思想から起立し国歌斉唱などできない。こういった考えに対し、戦後の現在でも、日本では、おそらく違和感を持つ人が多いとおもわれる。少なくともそういった考え方に多くの人はなじまない。強制的国歌斉唱は受け入れても、それを拒否する思想は受け入れない。こういった根拠不明な特性を日本の社会は総体として持っているような気がする。その結果、個人の思想や信仰よりも御真影遙拝や国歌斉唱の方がずっと優先すると考えてしまう。これは戦前・戦後で変わりがない。このような特性・構造は解明されるべきではないのか。

国歌斉唱起立拒否に賛成でも、そうでもなくても、懲戒処分など嫌だから起立をするのかもしれない。ちょうど荷風が乱暴者が押しかけて来るのを忌避するため日の丸の旗を購ったように。ここでよく考えると、吉本隆明が「最後の親鸞」で書いたように、「その世界は、自由ではないかもしれないが、観念の恣意性だけは保証してくれる」。どんなに強制があっても、一人一人が内面で感じたり思考することの中まで何人も立ち入ることはできない。その問題を発展させたり、批判したり、その歴史を考えたりすることはまったくの自由で、だれにも止められない。むしろ、そういったことがあると、観念の自由性が内部によみがえるのを感じるかもしれない。だれでも自由にそこから出発することができる。

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
吉本隆明「背景の記憶」(宝島社/平凡社)
「吉本隆明が語る戦後55年⑤」(三交社)
吉本隆明「親鸞〈決定版〉」(春秋社)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする