東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

貝坂通り(2014)

2014年02月17日 | 坂道

貝坂通り 貝坂通り 貝坂通り 貝坂通り 前回の三べ坂上から青山通りを越えると、そのまま道がまっすぐに延びている(現代地図)。現在は青山通りで分断されているが、下の江戸地図からもわかるように、三べ坂からずっと北へと続く道であった。

一枚目の写真は、青山通りを越えてすぐのあたりから進行方向(北)を撮ったもので、まっすぐに延びているが、この先で、ちょっと右に曲がっている。

その曲がりのあたりから撮ったのが二枚目で、わずかに右にカーブしながらずっと延びているが、緩やかな下り坂になっている。このずっと先に貝坂がある。

この近くに立っている案内地図をみると、この道は貝坂通りとなっている。青山通りと新宿通りとを結び、その中間に貝坂があるので、そうよぶのであろうが、わずかにカーブして緩やかにずっと下っている道の様子がいかにもむかしの雰囲気を残しているようで好ましく、この道を新宿通りまで歩いたこともあって、タイトルを単に貝坂とするよりもよいと思い、この通りの名を拝借した。

三枚目は、そのあたりで振り返って、南側を撮ったもので、青山通りと、その上の首都高速道路が見える。

四枚目は、貝坂通りを北へ進んで、緩やかな下り坂の底付近から北側を撮ったもので、貝坂が見えるが、少し左に曲がっている。ここは何回か来ているが、最近は、昨年、荷風生家跡から偏奇館跡まで歩いたときである(この記事)。

貝坂下 貝坂上 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 麹町永田町外桜田絵図(元治元年(1864)) 貝坂の坂下に来ると、飲食店が並んでいるのが見えるが、この通りでこのようになっているのはこの一画だけである(現代地図)。一枚目の写真は坂下側から、二枚目は坂上から撮ったものである。

坂下で右折して行くと、中坂の下りで、坂を上って次の交差点を左折していくと、清水谷坂の下り、その先は、紀尾井坂の上り坂である。ここから余丁町の断腸亭跡に向かうのであれば、紀尾井坂、喰違跡を通って紀伊国坂上を経由すればよい(上記昨年の記事参照)。

坂名は貝塚があったことに由来するが、この坂下まで海が入り込んでいたと云われる(縄文海進期)。

三枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図に、左の三べ坂から右(北)へと延びる道の途中に多数の横棒の坂マークとともにカヒサカとある。

四枚目の尾張屋板江戸切絵図 麹町永田町外桜田絵図(元治元年(1864))の部分図にも、右端の「三辺坂」から左(北)へとずっと長く延びる道が見え、途中にカイサカとある。

永井荷風の「断腸亭日乗」大正11年(1922)6月4日に次の記述がある。

「六月四日。百合子を訪ひ貝阪の洋食店宝亭に飰し、星岡の林間を歩む。薄夜風静にして月色夢の如く、椎の花香芬々として人を酔はしむ。」

荷風は、この日、百合子とこの坂の洋食店に来て、山王日枝神社の星ヶ岡のあたりを散歩しているが、その様子が妙である。その三日前の日乗にある次のことと関係するのかもしれない。

「六月朔。帝国劇場初日。帰途平岡画伯田村百合子と共に自働車にて平川町なる田村女史の家に至る。余は直に帰る。」

平川町は、平河町のことと思われ、この坂の東側(平河天神などがある)の地名で、この坂に近い。

貝坂上をそのまま進んで新宿通りに出るが、坂上からは平坦な道が続き、なんの変哲もないビジネス街である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社) 「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
中沢新一「アースダイバー」(講談社)

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