前回の行人坂下の太鼓橋を渡ってから右折し目黒川沿いに歩くと、まもなく目黒新橋のたもとに至る(ここを右折すれば権之助坂の坂下)。
ここを左折し、目黒通りの歩道を西へ進むと、山手通りとの大きな交差点にでるが、このあたりが金毘羅坂の坂下である。
一枚目の写真は、山手通りとの交差点を渡ってから坂上側を撮ったもので(現代地図)、このあたりはかなり緩やかである。この左手が大鳥神社。
二枚目は、ここの交差点の北側から坂上側を撮ったものである。
三枚目は、一枚目と同じ南側の坂下すぐのところに立っている坂の標識である。石製であるが、同じタイプの標識が市ヶ谷の高力坂や合羽坂に立っている。
四枚目は、ちょっと坂上方面に進んでから坂下側を撮ったもので、山手通りとの交差点が見える。
南側の歩道を歩く。一枚目の写真は、標識のちょっと上から坂上側を撮ったもので、この先で右に少々曲がっている。
二枚目はその上のバス停の手前から坂上側を、三枚目はバス停の上から坂上側を撮ったもので、このあたりからしだいに勾配がついてくるが、そんなに急ではない。
四枚目はバス停の上から坂下側を撮ったもので、坂下の交差点の向こうまで見える。
上記の坂下にある石の標識(東京都)に次の説明がある。
『金毘羅坂(こんぴらざか)
坂の西側に金毘羅権現社(高幢寺)があったので、坂の名がついたといわれる。
金毘羅権現社は、江戸名所図会の挿絵にその壮観がしのばれるが、明治時代の初めに廃寺となった。
坂の東側には、明治四十年に目黒競馬場ができ、昭和八年に府中に移転するまで、この坂は競馬場にいきかよう人々でにぎわった。
昭和五十八年三月 東京都』
目黒区HPに次の説明がある。
『目黒通りを大鳥神社から多摩大学目黒高等学校あたりまで上る坂道を金毘羅坂[こんぴらざか]という。明治の中ごろまで、この坂の付近に金毘羅社(目黒三丁目)があったところから、この名がついたという。
明治40年、坂上に目黒競馬場ができてから、昭和8年に府中へ移転する間、坂には競馬場へ向かう人びとが、あふれていた。
坂の途中に昭和2年から住んでいる安本鹿平さんは「昔は、今よりずっと狭い道で、小型乗用車を少し大きめにした程度の乗り合いバスが走ってました。そうそう、坂の南方には、当時、競馬場がありましてね。馬券が当たって、大盤振る舞いをしている人が、あなた知っているかな、2人引きの人力車、そいつに乗って帰るって話をよく耳にしたものですよ」
当時、道幅は約8メートル。現在は、約25メートルなので3倍もの広さになったのである。
安本さんの隣人で、大正12年から住んでいる白石兼吉さんは「目黒競馬場へは、よく行ったよ。馬券は20円で1人1枚きりしか買えなかった。そりゃものすごい人出でな、毎週土曜日、日曜日は、大変なものだったよ。乗り合いバスや馬車をつかって競馬場へ向かう人で、坂はいっぱいだったよ。当時、交通事故も3度ばかりあったかな。まだ自動車なんてものは、ほんとに少なかったから、交通事故なんてものも珍しいことでしたよ。今とちがって死ぬってことはなかったな」
現在の金毘羅坂、人の波から自動車の波へと移り変わり、区内でも上位の交通量を示している。』
一枚目の写真は、さらに上ってから坂上側を、二枚目はさらに上って坂下側を撮ったもので、かなり上ってきたことがわかる。
三枚目は尾張屋板江戸切絵図 目黒白金図(安政四年(1857))の部分図、四枚目は御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図である。
三枚目の尾張屋板には、権之助坂から目黒川を渡って西へ行くと、大鳥大明神があり、さらに進むと、北側に金毘羅大権現がある。この前に目黒不動の方へ南に延びる細い道筋が見えるが、この道が現在、坂中腹下側の目黒寄生虫館の手前を左折し南へ三折坂方面に続く道であるとすると、金毘羅権現社は坂中腹下側あたりにあったのであろう。
四枚目の御江戸大絵図にも大鳥大明神が見え、その西に鎮護大明神、高幢寺があるが、ここが金毘羅権現社である(下記江戸名所図絵本文参照)。
明治44年(1911)発行の東京府荏原郡目黒村の地図を見ると、大鳥神社があるが、金毘羅権現社はない。現在の目黒通りに相当する道筋があり、坂上の南側に大きく目黒競馬場がある。昭和16年(1941)の目黒区地図には、同じ道筋が見えるが、競馬場はない。
一枚目の写真は、坂中腹上側にある歩道橋の上から坂下側を、二枚目は坂上側を撮ったものである。
二枚目に写っている多摩大学高校・中学前あたりが坂上との説明があるが、坂はまだ続いている。
三枚目は歩道橋から坂上側にちょっと歩いてから坂下側を、四枚目はそのあたりから坂上側を撮ったものである。
この坂は、目黒通りにあり、目黒川の先から西へ上る坂であるが、同じように目黒川の近くから西へ上る駒沢通りのけこぼ坂と似ている感じがする(両者とも幅広の大きな通りであるためか)。
この絵を見ると、右図の中央に本社があり、その下に川が流れているが、これが目黒川であろう。そこから斜め上に道が延び、続いて左図の右端に石段があり、そのまま進むと、右に本社を見ながら斜め左へ続いている。この石段のあたりを金毘羅坂とよんだのだろうか。
本文に次の説明がある。
『金毘羅権現社 同所[大鳥神社]二町ばかり西の方、通りを隔てゝあり。祭る所讃州象頭山金毘羅神と同じ。当社を以つて御城南鎮護神と称し奉れり。九条家染筆の額を蔵す。別当は禅宗にして高幢寺[こうとうじ]といふ。境内に難波の梅、又曽根の松と称する樹あり。』
金毘羅権現社は、高幢寺が別当であったが、明治初年の混乱期に高幢寺が廃寺となって、運命をともにしたという(石川)。
一枚目の写真は、坂をさらに進み、坂上側を撮ったもので、ほぼ平坦となっていて、この先に見える信号が元競馬場である。二枚目はそのあたりから坂下側を撮ったものである。
三枚目は、その信号の手前から坂上を撮ったもので、このちょっと先に、四枚目の目黒競馬場跡の標識が立っている。この説明文によると、この目黒競馬場は、府中に移転する前年の昭和7年(1932)に第一回日本ダービーが開催された地とのこと。
目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」にあるこの坂の全長、高低差、平均斜度は、263m、6.5m、2.4で、かなり緩やかで、けこぼ坂よりも短く勾配がない。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)
「坂道ウォーキングのすすめ」(目黒区発行)
「江戸名所図会(三)」(角川文庫)