東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

千代が崎

2013年10月02日 | 散策

新茶屋坂中腹 茶屋坂標柱のある交差点 永峰の崖跡 永峰下の道にある階段 前回の目黒川散歩道を中里橋で左折し北東に向かい、新茶屋坂を上る。その中腹近くで坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、このちょっと上のバス停の手前で右折する(現代地図)。

下り坂となってちょっと歩くと、見覚えのある四差路に近づく。二枚目の写真のように、茶屋坂の坂下の標柱のあるところである。ここを左折すれば、茶屋坂の上りであるが、今回は、ここを直進する。

二枚目の写真の右のちょっと上り坂となった道を歩いて行くと、住宅街には異質で荘厳な感じの建物に出くわすが、よく見ると、アルジェリア大使館である。

さらに進み、左手の建物と建物の間を見ると、三枚目のように、崖跡がある。樹木のためよくわからなくなっているが、所々にコンクリートで補強したような部分が見える。この崖上は、茶屋坂上の永峰とよばれた台地の縁(へり)で、ここは崖下に沿ってできた道と見当をつけて来たが、やはりそうであった。

さらに進み、行き止まりを右に大きく曲がると、下り坂となるが、そのすぐ左手に上り階段が見える(現代地図)。そのあたりから撮ったのが四枚目で、大きめの階段が先ほどの崖上へと上っている。目黒駅などへの近道となっているのであろう。

階段上からの風景 階段上近くの無名坂 三田公園入口付近 三田公園奥 階段の上からふり返ると、西側に眺望のよい風景が広がっている。一枚目の写真は、そこから撮ったもので、いつもの坂上からとは違った風景である。

階段上からマンションの間にできた道が続き、道なりに進むと、一般道の無名の坂道にでるが、二枚目は、その坂下側を撮ったものである。かなりの勾配でまっすぐに下っている。反対を見ると、上り坂となっていて、先ほどの階段の上は台地の最高点でないことがわかる。

坂を上ると、ちょっと広めの道路(目黒三田通り)にでるが、ここを左折する。北へちょっと歩くと、三田公園の入口がある。このあたりは、かつて千代が崎とよばれた眺望のよい景勝地であった。公園入口付近を撮ったのが三枚目であるが、これに写っているように、千代ヶ崎の標識パネルが立っている。 この付近の街角地図がそのわきに立っているが、これからもわかるように、三田公園はほぼ西へと細長く延びている。

公園の奥に進むと、その先端部はフェンスが張られて立ち入ることができないが、四枚目は、その奥左(南側)を撮ったもので、このフェンスの外側は崖である。このあたりが千代が崎とよばれた地の西側の突端付近であったと想像される。現代地図を見ると、この公園の先端の直下が先ほどの階段上にかなり近い。

千代が崎について目黒区HPに次の詳しい説明がある。

『権之助坂上から恵比寿方面に向かい、区立三田児童遊園(目黒区三田二丁目10番)辺りまでの目黒川沿いの台地を「千代が崎」といい、かつて目黒元富士、目黒新富士、爺ヶ茶屋、夕日が丘と並び富士をながめる絶好の場所で、江戸名所の一つであった。当時の人びとは花に、月に、雪に、ここを訪れては一日を楽しんで帰ったことであろう。

「新編武蔵風土記稿」によると「千代が崎は、三田・上大崎・中目黒・下目黒にわたって広大な敷地を有する肥前島原藩主、松平主殿頭[まつだいらとものかみ]の抱屋敷辺りをいう…」とあり、また江戸名所図会には「景色の優れたところで、松平主殿頭の別荘「絶景観」があったところ」と記されている。庭には、関東第一といわれた三段の滝が落ち込む大きな池があった。

さて、千代が崎の由来だが、武将新田義興の侍女千代にまつわる伝説から出たものであり、話は南北朝時代にまでさかのぼる。

正平十三年(1358)、義興は足利基氏・畠山国清に謀られ、多摩川矢口の渡しで殺されてしまった。義興の死を知った千代は「死ねば義興のそばに行ける」と考え、この池に身を投げてしまったのである。千代を哀れんだ人びとは、この池を千代が池と呼ぶようになり、それが地名ともなったのである。

千代が池は、東京都教職員研修センター(目黒区目黒一丁目1番)の構内に昭和十年ごろまで、わずかに残っていたといわれるが、今日では広重画の「名所江戸百景」に見られるだけである。

また、千代が崎には、こんなエピソードも残されている。松平主殿頭の屋敷内に三基の異様な灯ろうがあった。この灯ろうは大正15年に大聖院(目黒区下目黒三丁目1番)に移されたのだが、それが十字の型をした切支丹灯ろうであることがわかり、この地が潜伏切支丹の遺跡ではないかと大騒ぎになったのである。地名「千代が崎」は、昭和7年以前まで目黒町の字名として使われていた。』

この説明にある目黒区三田二丁目10番の区立三田児童遊園とは、上記の街角地図を見ると、この三田公園であると思われる。権之助坂上は目黒駅前付近で、そのあたりからこの公園あたりまでを千代が崎とよんだようである。

明治44年(1911)発行の東京府荏原郡目黒村の地図を見ると、現在の山手線に沿った細長い土地に「字千代ヶ崎」とあるが、目黒村でなく、大崎町の地名である。三田用水が線路に沿って流れている。昭和16年(1941)の目黒区地図では品川区となっている。

御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 目黒白金図(安政四年(1857)) 一枚目は、御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図、二枚目は尾張屋板江戸切絵図 目黒白金図(安政四年(1857))の部分図である。いずれにも千代ヶ崎とある。近くを流れているのは三田用水であろう。松平主殿頭の屋敷が見える。

江戸名所図会に千代が崎の挿絵がある(ホームページ「鬼平犯科帳と江戸名所図会」)。品川の海などが見え、眺めのよい風景とともに、この絶景を楽しむ人々が描かれている。本文に次の説明がある。

『千代が崎 渋谷宮益町より、目黒長泉律院へ行く道の傍、芝生の岡をいふ。佳境の地にして永峰に属せり。絶景観といふは、松平主殿侯の別荘の号にして、閑寂無為自然にその地に応ず。』

「崎」とは、山が突き出た先端を意味し(広辞苑)、この地は、台地がまさしく岬のように突き出たところであったのであろう。

茶屋坂上の道 茶屋坂上近く 三田公園の入口から北へちょっと進み、すぐの信号のところ(上三枚目の写真)を左折し、左斜め方向に延びる道を歩く。静かな住宅街が続くが、この左手の奥が先ほどの崖の上である。

一枚目の写真は、この道の途中で撮ったもので、大樹が茂っている。ここをちょっと進むと、突き当たり、そこでふり返って撮ったのが二枚目の写真で、右端が茶屋坂の坂上である。このあたりも永峰であるが、近江屋板江戸切絵図を見ると、権之助坂上、行人坂上に永峰町とあるので、そのあたりまでをもそう呼んだのであろう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)
「江戸名所図会(三)」(角川文庫)

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