東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

富士見坂(目黒)

2013年10月04日 | 坂道

富士見坂上 富士見坂上 富士見坂中腹 富士見坂中腹 前回の茶屋坂上から引き返し、目黒三田通りにもどり、三田公園を右に見て南へ歩く。やがて信号のある小さな交差点に至るが、ここを右折すると、富士見坂の坂上である(現代地図)。

坂上は、品川区で、上大崎二丁目22番と23番との間。

一枚目の写真は坂上から坂下側を撮ったものであるが、西へとまっすぐに下っている。坂上ではまだ緩やかである。

二枚目は、そこからちょっと下ってから坂上を撮ったもので、このあたりではかなり勾配がつきはじめている。

三枚目はさらに下ってから坂下側を、四枚目はそこからさらに下ってから坂上側を撮ったもので、このあたりではかなりの勾配となっている。さすが永峰の崖地にできた坂であると感心してしまう。三、四枚目のあたりが区境で、坂下側が目黒区である。

この坂名は西側に向いているため富士がよく見えたことに由来するのであろう。大正後期の新坂とのことで(山野)、このためか、横関、石川には紹介されていない。同名の坂は都内に多いが、ここは目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」にも目黒区HPにもなく、まだ認知されていないようである。

富士見坂中腹 富士見坂中腹 富士見坂下 富士見坂下 一枚目の写真は、中腹でもかなり下側から坂上側を撮ったもので、都教職員研修センター(もと?)の入り口近くである。この敷地内に千代が崎の地名の由来になったという千代が池があったといわれ、このあたりに江戸時代に肥前島原藩主の松平主殿頭の別荘があった。

二枚目は、そのあたりから坂下側を撮ったもので、驚いたことにここから下側(ツートーンカラーのところ)がさらに急になっている。

三枚目は、さらに下り、そのツートーンカラーの下側から坂上側を撮ったものである。

四枚目は坂下から坂上側を撮ったものであるが、坂下でかなり急激に下っているので、坂上が見えない。

各写真を見るとわかるが、この坂はもとの整備が悪いのか、凸凹となっているところがあちこちにある。

富士見坂南隣の坂下 富士見坂南隣の坂下 坂下を左折し、権之助坂方面に向かうが、一枚目の写真は、富士見坂の南隣の無名坂を坂下から撮ったもので(現代地図)、二枚目は、さらにその隣の無名坂(途中で行き止まり)を撮ったものである。この坂と同じようにかなりの勾配である。

明治44年(1911)発行の東京府荏原郡目黒村の地図にはこの坂は見えないが、昭和16年(1941)の目黒区地図にはのっており、坂下北側に無線電信講習所がある。また、南隣の二つの無名坂も見える。

この坂は、大正後期につくられたというが、千代が崎(永峰)の台地と目黒川から離れた坂下とをほぼ直線に結ぶようにかなり短くつくられ、そのため、近くの新茶屋坂などと違って、短距離になった分だけ勾配がかなりきつくなっている。

同じく近くの茶屋坂は、台地から崖地をトラバースするように下り、できるだけ緩やかになるようにつくられ、いかにも古い時代(江戸時代またはそれ以前)につくられたような印象を受けるのに比べ、ここは、近代になってから台地から谷まで最短距離で結ぶよう強引につくられたように思えてしまい、時代の差を感じてしまう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社) 「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)

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