東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

永井荷風住居跡近く(築地)

2011年09月19日 | 荷風

永井荷風は大正9年(1920)5月麻布市兵衛町の偏奇館に移るが、その直前には築地に住んでいた。今回は、その築地の住居跡を訪ねた。
 

荷風は築地に大正7年(1918)12月余丁町から移ったのであるが、その住所は、京橋区築地二丁目30番地であった。現在の築地本願寺隣り(東北側)の築地三丁目10,11,12番地のあたりであるが、ある程度の広さがあり、秋庭太郎の著書を見ても具体的な位置の記述はなく、実際にどこにあったか不明である。(秋庭太郎「考証 永井荷風」は、昨年、岩波現代文庫(上)(下)の二冊として新仮名遣いに改められて出版されたが、この新版の文庫本を参考にした。)

荷風が父から相続した余丁町の邸宅を売り払い、築地に移った理由などは以前の記事のとおりである。築地から麻布市兵衛町に移った事情なども以前の記事にある。 

築地本願寺と築地三丁目の間の道路 午前日比谷線築地駅下車。

上の地図で「goo地図へ」をクリックした地図画面から古地図(明治地図、昭和22年・38年の航空写真)を見ることができるが、その明治地図(人文社発行の「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」と同じ)では、本願寺側に築地郵便局があり、そこを西の角として京橋区築地二丁目30番地がほぼ正方形状に広がっている。

明治地図と戦前の昭和地図を見ると、本願寺前の道路は、電車通りでなく、その北西方向の次の通りが電車通りであった。本願寺の敷地が明治地図の時代から変わらないとすると、本願寺前の道路が現在の広い新大橋通り(その地下を日比谷線が通っている)である。戦前の昭和地図では、本願寺前が市場通りとなって茅場橋の方へと延びており、いまの新大橋通りがほぼできていたと思われる。

左の写真は、築地駅1番出口を出ると、本願寺の塀が見えるが、ここから新大橋通りを左に見てちょっと進み、すぐの信号を渡って右折したところから撮ったもので、右の道路の向こうが本願寺で、左が築地三丁目11番地の西の角である。この角が明治地図と同じ位置とすると、ここに築地郵便局があった。

築地三丁目11番地付近 築地三丁目10,11番地付近 築地三丁目10番地付近 築地三丁目12番地付近 上記の道路の歩道を本願寺を右に見てちょっと歩くと、左手にガソリンスタンド(ENEOS)があるが、ここを左折して撮ったのが一枚目の写真で、そこをちょっと進んで撮ったのが二枚目の写真で、左手が築地三丁目10,11番地の境で、右手が12番地である。道はまっすぐに東北へ延び、両わきはビルばかりであり、住宅地というよりも商業地といった方がよいところである。

三枚目の写真は、さらに進み、築地三丁目10番地の角から延びる小路を撮ったもので、写真奥側は新大橋通りである。その小路の反対側に延びる小路を撮ったのが四枚目の写真で、右手が12番地である。

ふたたび明治地図を見ると、京橋区築地二丁目30番地には、築地本願寺前の道路と平行な道が一本ほぼ中央に通っている。これが現在の上記のガソリンスタンドを左折した道と同じ通りか否か不明である。現在の道は中央というよりも築地本願寺前の道路に近いからである。戦前の昭和地図では、現在の道筋とほぼ同じである。この間に変わったのであるが、関東大震災の影響かもしれず、荷風が住んだのは震災前であるから、明治地図の方に近かったと想像される。

上の五枚の写真を見てもわかるように、当時を偲ぶことのできるものはなにもないといえそうである。もっとも、これは、荷風生誕地偏奇館跡などみなそうであるが。相違点はただ一つ、教育委員会などによる案内標識が立っていないことだけ。

築地三丁目界隈 築地七丁目界隈 築地七丁目界隈 上記の写真を撮った後、築地三丁目や七丁目のあたりをぶらついたが、三枚の写真は、そのとき撮ったものである。いずれも下町ふうの雰囲気を醸し出しているような感じがして思わずシャッタをきった。

荷風に、この築地を背景にした短篇小説「雪解」がある。主人公兼太郎は、五年前の株式の大崩落に家をなくし妻とは別れ妾の家から追い出され、丁度五十歳の時人の家の二階を借りるまでに失敗してしまった。その家が京橋区築地二丁目本願寺横手の路地にあるという設定である。

「路次の雪はもう大抵両側の溝板の上に掻き寄せられていたが、人力車のやっと一台通れる程の狭さに雪解の雫は両側に並んだ同じような二階屋の軒からその下を通行する人の襟頸(えりくび)へ余沫(しぶき)を飛ばしている。それを避けようと思って何方かの楣(のき)下へ立寄ればいきなり屋根の上から積った雪が滑り落ちて来ないともわからぬので、兼太郎は手拭を頭の上に載せ、昨日歯を割った下駄を曳摺りながら表通りへ出た。向側は一町ほども引続いて土塀に目かくしの椎の老木が繁茂した富豪の空屋敷。此方はいろいろな小売店のつづいた中に、兼太郎が知ってから後自動車屋が二軒も出来た。銭湯も此の間にある。蕎麦屋もある。仕出屋もある。待合もある。ごみごみした其等の町家の尽る処、備前橋の方へ出る通りとの四辻に遠く本願寺の高い土塀と消防の火見櫓(ひのみやぐら)が見えるが、然し本堂の屋根は建込んだ町家の屋根に遮られて却って目に這入らない。区役所の人夫が掻き寄せた雪を川へ捨てにと車に積んでいるのを、近処の犬が見て遠くから吠えて居る。太い電燈の柱の立って居るあたりにはいつの間にか誰がこしらへたのか大きな雪達磨が二つも出来ていた。自動車の運転手と鍛冶屋の職人が野球の身構で雪投げをしている。」

主人公が銭湯へ出かける道すがらの描写であるが、表通りとは本願寺前の通り、備前橋の方へ出る通りとの四辻とは表通りと本願寺横の通り(上一枚目の写真の通り)との交差点と思われる。この四辻で、自動車屋、銭湯、蕎麦屋、仕出屋、待合などのごみごみした町家が尽き、その向こうは本願寺の土塀であった。荷風のすぐれた描写によりその当時のこの街の様子がよくわかる。

「何しろここでお前に逢はうとは思はなかった。お照、すぐそこだから帰りに鳥渡(ちょいと)寄っておくれ。お父(とツ)さんはすぐそこの炭屋と自転車屋の角を曲がると三軒目だ。木村ツていふ家にいるんだよ。曲って右側の三軒目だよ。いいか。」

主人公は銭湯で昔に別れた娘のお照と偶然に会い、訪ねてくるように間借りの家の位置を説明しているが、そこは、表通りから炭屋と自転車屋の角を曲がって右側の三軒目である。明治地図には表通りから入る小路が中程にあるが、この小路に、その角を曲がって右側の三軒目の家があったのかもしれない。この小説で主人公が間借りをしている家が荷風の住居と同じ所という設定であれば、荷風の住居は、表通り近くにあったということになる。また、その小路がいまの築地三丁目10番地の角から新大橋通りへ延びる小路とすれば、上三枚目の写真の左側ということになるが、はたしてどうであろうか。

荷風はこの小説を大正11年(1922)2月に脱稿しているが、断腸亭日乗に次のように記している。

大正11年「二月八日。小説雪解前半の草稾を明星に寄送す。風雨屋上の残雪を洗ふ。」

「二月十日。残雪跡なく雨後の春草萋々たり。夜月明なり。風月堂にて晩食を喫し、築地旧居のあたりを歩む。目下執筆の小説雪解の叙景に必要の事ありたればなり。」

「二月十四日。短篇小説雪解の稾を脱す。七草会末広に開かるゝ由通知ありしが徃かず。此日も温暖四月の如し。梅花咲く。」

2月10日には、銀座の風月堂で夕食をとってから、この築地の旧居のあたりに小説の参考のために散歩に来ている。
(続く)

参考文献
秋庭太郎「考証 永井荷風(上)」(岩波現代文庫)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「荷風全集 第十四巻」(岩波書店)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)

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