東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

国会前庭(憲政記念館、水準原点)~井伊邸跡

2011年09月08日 | 散策

前回の梨木坂上を進み、突き当たりを左折し東へちょっと歩くと、信号のある憲政記念館前の交差点に至るが、その向こうに憲政記念館が見えてくる。上の地図は、三宅坂の南西に位置する憲政記念館、国会前庭のあたりを示す。

憲政記念館前 憲政記念館前坂上 憲政記念館 国会前庭 憲政記念館前の道路は、二枚目の写真のように、北へ下る坂で、坂下は三宅坂につながっている。上の地図の右下の「ユーザー地図へ」または左下の「goo地図へ」をクリックし、表示された地図の上のタブから古地図(明治地図、昭和22年・38年の航空写真)を見ることができるが、いずれにもこの道路はなく、比較的最近つくられたものであろう。

明治地図によれば、西が前回の梨木坂、北が青山通り、東が三宅坂、南がいまの国会正門前と国会前の交差点との間の道路で囲まれる地域に陸軍の中枢があった。この地域が井伊邸跡で、北東側に陸軍省があり、その東南に参謀本部があった。

内に入ると、憲政記念館があり、その右側から国会前庭へと行くことができる。この憲政記念館という施設の近くに来たのは初めてである。
そのホームページに次の説明がある。

「憲政記念館は、1970年(昭和45)にわが国が議会開設80年を迎えたのを記念して、議会制民主主義についての一般の認識を深めることを目的として設立され、1972年(昭和47)3月に開館しました。当館のある高台は、江戸時代の初めには加藤清正が屋敷を建て、その後彦根藩の上屋敷となり、幕末には藩主であり、時の大老でもあった井伊直弼が居住し、後に明治時代になってからは参謀本部・陸軍省がおかれました。1952年(昭和27)にこの土地は衆議院の所管となり、1960年(昭和35)には、憲政の功労者である尾崎行雄を記念して、尾崎記念会館が建設されました。その後これを吸収して現在の憲政記念館が完成しました。」

上の地図からこのあたりの昭和22年の航空写真を見ると、ほとんどなにもないようである。このとき、すでに陸軍省も参謀本部もそれらの建物はなかったのだろう。今回、戦後、これらの建物をどこがどう処理したのか、調べようとしたが、書いているものは見つからなかった(そんなに探したわけではないが)。おそらく終戦の日の8月15日から遠くない時期に徹底的に破壊されたのではないだろうか、そんな気がする。すべてを隠蔽するために。

日本水準原点 日本水準原点標庫説明板 国会前庭から 憲政記念館から国会前庭の方へ行くと、上右の写真のように、ちょっと高い時計塔が建っている。どういう意味、いわれがあるのか不明だが、なにもないところだけに目立っている。ちょうどむかしの参謀本部の代わりに目立とうとしているかのようである。

その先へ進むと、左の写真のように日本水準原点がある。水準原点標庫のわきに立っている石板の標識には次の説明がある。(二枚目の写真は、東京都教育委員会が設置した説明板である。)

「日本水準原点について
 日本水準原点は、全国の土地の標高を決める基になるもので、明治24年8月国がここに設けたものです。
 水準原点の位置は、この建物の中にある台石に取り付けた水晶板の目盛りの零線の中心で、その標高は、24.4140メートルと定められています。この値は、明治6年から長期にわたる東京湾の潮位観測による平均海面から求めたものです。 国土地理院」

国土地理院のホームページによると、明治に水準原点をつくったとき、隅田川河口の霊岸島で行われた潮位観測により、この内部の水晶板のゼロ目盛りの高さが、東京湾平均海面上24.500mと決定されたが、大正12年(1923)の関東大地震で、この付近一帯にも相当の地殻変動があり、測量の結果、原点の高さは東京湾平均海面上24.4140mと改定された。

3・11の東日本大地震でも変化したらしく、近い将来、改定されるとのこと(wikipedia)。日本経緯度原点は、麻布台のロシア大使館の南にあり、以前の記事で紹介したが、ここも今回の大地震で動いたと思われる。

明治地図には、参謀本部の南に陸地測量部があるが、水準原点の近くであった。陸地測量部は参謀本部の組織であったが、ここが水準原点を管理していたのではないだろうか。

戦前の昭和地図(人文社)には、陸地測量部のところに次のような註が付されている。「陸測図の販売禁止 昭和12年(1937)10月、参謀本部陸地測量部発行の地図が販売禁止になった。これ以前にも地図上で軍事施設のある要塞地帯や国防上の要地は空白にして販売していた。」

同地図では、確かに、このあたりは空白になっている。また、陸軍省のところには、昭和10年(1935)8月12日におきた相沢事件がのっている。

憲政記念館、時計塔、水準原点をながめてきたが、かつてこの地に明治中頃から昭和20年まで日本陸軍の中枢の参謀本部や陸軍省があったことを示すものはなにも残っていない。当時から残っているものは水準原点だけといってよい。これ以外は、きれいさっぱりと、横暴と愚策を繰り返した忌まわしい過去を塗りつぶしたかのようだ。

そう思うと、三宅坂の記事で紹介した最高裁判所角の区立三宅坂小公園にある平和女人像が思い出される。ここには戦前まで陸軍元帥の寺内正毅の銅像があった。その記事で引用した「大東京写真案内」(復刻版)にある昭和8年(1933)頃の三宅坂付近の写真を見ていると、馬に乗った寺内の銅像がのっている台座は、現在、平和女人像がのっている台座と同じもののように思えてきた。平和女人像がつくられたのは昭和25年(1950)であるが、物不足の当時、あえて台座を代える必要もなく前のものをそのまま利用したと考える方が自然であるが、そう考えると、さして必要のなさそうな広告記念像などというものをここにつくった理由も怪しく思えてくる。実際どうだったか不明だが、同じ台座であれば、ここには戦前の軍の遺跡が珍しく残っているといえそうである。

国会前交差点 井伊邸跡 桜の井説明板 江戸名所図会 桜が井 上右の写真のように国会前庭の東側に行くと、先ほど通った三宅坂下方面がよく見える。ここの階段を下り公園の外にでて、左の写真の手前の歩道を道なりに歩いていくと左にカーブして三宅坂下の歩道になるが、そのちょっと先に、井伊邸跡の標柱と桜の井跡がある。標柱に次の説明がある。

「井伊掃部頭邸跡(前加藤清正邸)
この公園一帯は、江戸時代初期には肥後熊本藩主加藤清正の屋敷でした。加藤家は2代忠広の時に改易され、屋敷も没収されました。
その後、近江彦根藩主井伊家が屋敷を拝領し、上屋敷として明治維新まで利用しています(歴代当主は、掃部頭を称しました)。
幕末の大老井伊直弼は、万延元年(一八六〇)三月に、この屋敷から外桜田門へ向かう途中、水戸藩主等に襲撃されました。」

井伊直弼は、このあたりの表門からでて桜田門外で暗殺されたが、ここから桜田門まで距離はさほどなく、出発してまもなく襲撃された。

標柱の左わきに、井戸跡があるが、これが桜の井である。傍らにある説明板(三枚目の写真)によると、この井戸は加藤清正由来のものらしく、また、昭和43年(1968)の道路工事で交差点内から原形のまま10m離れた現在の場所に移設復元された。ということで、桜の井のあった位置は正確にはここでなく、また、井伊邸の表門の位置もこの場所ではないようだ。

右は、江戸名所図会にある「桜が井」の挿絵である。説明に「井伊侯の藩邸表門の前、石垣のもとにあり。亘り九尺ばかり、石にて畳みし大井なり。釣瓶の車三つかけならべたり。・・・」とある。絵を見ると、確かに釣瓶の滑車が三つもあり、大きな井戸であった。

井伊邸跡から引き返し、水準原点のわきを通って、国会前庭から梨木坂へもどるが、この間、この公園にいたのは、私以外に一人だけである。休日の午後、三宅坂の堀側の歩道はジョギングの人がたくさん通るが、その反対側の公園は人気のないところであった。
(続く)

参考文献
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「江戸名所図会(三 )」(角川文庫)
大江志乃夫「日本の参謀本部」(中公新書)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 梨木坂 | トップ | 千鳥ヶ淵公園~英国大使館裏... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

散策」カテゴリの最新記事