芥川龍之介に「或日の大石内蔵之助」という短篇小説がある。或日というのは、大石内蔵之助が、吉良邸への討ち入りの後、高輪の細川家に他の同志十六名とともに預かりの身であったときである。
内蔵之助は、快い春の日の暖かさの中、安らかな満足の情があふれるのを感じる。もちろん本意を遂げたからであるが、そういった平安の心にさざ波が生じる。小さな出来事をきっかけにして、そこから心が乱れてしまう。内蔵之助の内面を芥川流に描き出している。
討ち入りに余りにも過剰に反応する世間、その世間話を伝える細川家の家臣で赤穂浪士の接伴係の一人である堀内伝右衛門、それを面白がり話題にしようとする早水藤左衛門、しかしそれを聞いて不愉快になる内蔵之助。
『「手前たちの忠義をお褒める下さるのは難有いが、手前一人の量見では、お恥しい方が先に立ちます」
こう云って、一座を眺めながら、
「何故かと申しますと、赤穂一藩に人も多い中で、御覧の通りここに居りまするものは、皆小身者ばかりでございます。尤も最初は、奥野将監などと申す番頭も、何かと相談にのったものでございますが、中ごろから量見を変え、遂に同盟を脱しましたのは、心外と申すより外はございません。その外、進藤源四郎、河村伝兵衛、小山源五右衛門などは、原惣右衛門より上席でございますし、佐々小左衛門なども、吉田忠左衛門より身分は上でございますが、皆一挙が近づくにつれて、変心致しました。その中には、手前の親族の者もございます。して見ればお恥しい気のするのも無理はございますまい」』
これは、一同の会話が不愉快な話になるのを阻むためとっさに内蔵之助が語ったこと、というのがこの小説の設定である。
しかし、上記の大石内蔵之助の話をきっかけに、変心して同盟を脱した者に対する同志達の罵りがはじまると、接伴係の伝右衛門までもが同調して同じように憤る有様である。大石独りが変心した彼等を心の内で擁護する。彼等の変心の多くは自然すぎる程自然であった。気の毒な位な真率(まじめで率直なこと)である。そして、「何故我々を忠義の士とする為には、彼等を人畜生としなければならないのであろう。我々と彼等の差は、存外大きなものではない。」
話はさらに別の望まぬ方向にそれて、一年程前の内蔵之助の京都島原や橦木町での遊蕩さえも仇の細作(スパイ)の目を欺くためと絶賛されてしまう。しかし、内蔵之助は、そのような遊びの中に「復讐の挙を全然忘却した駘蕩たる瞬間を味わった」ことを否定できない。「彼の放埒の全てを、彼の忠義を尽す手段として激賞されるのは、不快であると共に、うしろめたい。」
大石は、変心した者に対しては寛容の心を持ち、彼等と大きな差はないとまで思い、遊蕩三昧の京都時代のことは本気でもあったことを否定せず、うしろめたさもあるという、きわめて人間性に富んだ人物、あるいは、それ以上に内省する者として描かれている。
明治42年(1909)刊行の福本日南「元禄快挙録」は、その題名からもわかるように、忠臣蔵礼賛・讃美に貫かれている。善と悪の二極が存在し、絶対的な善が悪・敵の存在によりいっそう浮かび上がるという構図である。善はもちろん赤穂浪士で(それゆえ、義士、義徒)、敵は仇討ち対象の吉良上野介だが、それ以上の存在である悪は、変心した背盟の七十四名の輩である(それゆえ、七十四醜夫)。
芥川のこの短篇は、大正6年(1917)8月15日作であるが、当時、日南のように赤穂浪士を義士・義徒とし正義とする風潮が一般的であった中でどう受けとめられたのであろうか。その内容からかなり特異なものとされたに違いない。特に背盟者に対する大石の寛容な心持ちなどは、日南などによる礼賛史観、それの裏返しの裏切者罵倒史観からすればまったく認められない。彼等と大きな差はないなどとすることは、あり得ず、理解を超えたものであったと想われる。
芥川は、大石の心を多面的に描き、その内面に肉薄することで、善・正義という一方向で平板な視点から大石という人物像を解放した。旧来の大石像を壊そうとした。芥川によってはじめて忠臣蔵物語は善悪二元論を越える地平に達したのである。
数年前にこの短篇を読んだとき、さほどの違和感を感じなかったが、元禄快挙録をその後に読むと、両者の刊行の時期はさほど離れていないのに、その違いに愕然とするほどである。
吉田精一は芥川文学の材源、出典の考察で、『主として「堀内伝右衛門覚書」か。福本日南「元禄快挙録」も参看か。』としている。真山青果もこの短篇はその覚書が題材であるとしている。堀内伝右衛門覚書とは、上記の細川家の接伴係であった伝右衛門によるメモである。その覚書を日南も参考としており、「二六五 細川邸における内蔵助」に、上記の内蔵之助による「皆小身者ばかりで・・・」の語りと同じセリフが出てくる。すなわち、『「・・・。そのうちには拙者親族さえ交りおり、寔(まこと)に御恥かしい次第でおざりまする」と慨然たるものこれを久しゅうした。』というのがそれであり、恥ずかしい次第であると大石が憤り嘆いたとしているが、これを芥川は、上記のように、嫌な話の方向転換のための方便から語ったことという位置づけに変えた。これから始まって、変心した者達と大きな差はないとするにまで至るのである。
芥川が題材にしたという堀内伝右衛門覚書自体がすでに赤穂浪士礼賛の立場に立つ者によるもので、それから壊しにかかったことは、伝右衛門の描き方から想像される。日南は、その著書でさかんに史実に忠実に描くとしているが、その史実自体がそういう主観性の強いものに基づくから、忠臣蔵讃美になることは当然のことであった。この意味で、芥川は当時の世間一般の忠臣蔵感のみならず堀内覚書に象徴される江戸元禄という過去をも俎上に載せなければならなかったのである。
(続く)
参考文献
芥川龍之介「戯作三昧・一塊の土」(新潮文庫)
芥川龍之介全集1(筑摩書房)
福本日南「元禄快挙録(上)(中)(下)」(岩波文庫)
真山青果「元禄忠臣蔵(下)」(岩波文庫)