東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

極楽水~播磨坂

2011年03月28日 | 坂道

播磨坂下 播磨坂下 播磨坂下 播磨坂下 吹上坂下を左折すると、すぐに播磨坂の坂下で、吹上坂とほぼ平行に上っている。ここは吹上坂よりも広く、中央分離帯が散歩道になって両側が一方通行の車道である。真ん中の散歩道は広く、桜並木となってゆったりとした散歩ができる。吹上坂と同じく、坂上は春日通りにつながり、坂下は千川通りである。途中わずかに曲がっているが、ほぼまっすぐな中程度の勾配の坂である。

坂上(東側)歩道わきにあった説明板には次の説明がある。

『環三通り桜並木の由来   文京区小石川4・5丁目の境 播磨坂
 かつて、このあたりは常陸府中藩主松平播磨守の上屋敷で、坂下には千川(小石川)が流れ、「播磨田圃」といわれた田圃があった。戦後できたこの坂は、播磨屋敷の跡地を通り、「播磨田圃」へ下る坂ということで、「播磨坂」とよぶようになった。
 坂の桜並木は、戦後間もない昭和22年、地元の人たちが植えたのがはじまりである。昭和28年には小針平三氏他、有志からの苗木寄贈により桜並木が生まれた。その後、並木植樹帯の整備がすすみ、平成7年には装いを新たにした桜並木が完成した。
 昭和43年には「桜まつり」が地元町会・婦人会の協力で開始され、今日まで桜の名所として区民に親しまれている。』 
 

極楽水入口 極楽水弁才天 播磨坂の中央の散歩道を上るが、ここは途中わきに出ることができないので坂下にもどり、東側の歩道を上る。少しで左側にマンションの入口が見えてくるが、そのわきに極楽水の説明板が張り付けてある。次の説明がある。

「極楽水(ごくらくすい)  文京区小石川4-16 小石川パークタワー敷地内
 ここは、了誉聖冏上人(りょうよしょうけいしょうにん)が、応永22年(1415)伝通院の元ともなった庵を結んだ所で、後に吉水山宗慶寺の境内となった。現在の宗慶寺は、すぐ下にある。
 『江戸名所記』に、「小石川吉水の極楽の井は、そのかみ 伝通院の開山了誉上人よし水の寺に おわせし時に、竜女形をあらわして上人にまみえ奉り、仏法の深き旨を求めしかば、上人はすなわち 弥陀の本願、他力の実義を ねんごろにしめし賜うに その報恩としてこの名水を出して奉りけり」とある。
 現在の極楽水は、小石川パークタワーの手によって近代風に整備されたものである。
 文京区教育委員会 平成5年10月」

マンションのわきへ入ると、樹木で鬱蒼とした庭風の敷地内に、極楽水弁才天の小祠があり、そこから階段でちょっと上がったところに、「極楽水(この下)」の標識が立っている。現在、湧き水はなく、涸れており、正確には極楽水跡であろう。ここを進むと、吹上坂の歩道に出るが、宗慶寺のちょっと上側である。

極楽水 極楽水 「江戸名所図会」には、宗慶寺と極楽水が次のように説明されている。

「吉水山宗慶寺 同じ所三町ばかり西北にあり。朝覚院と号す。浄土宗にして伝通院に属せり。本尊阿弥陀如来は恵心僧都の作なり。相伝ふ、伝通院の了誉上人、応永22年乙未この地に至り、隠栖の地を卜し草庵を葺きてこゝに居せらる。側に清泉あり。洛陽の祖跡を追慕し、これを吉水と号く。則ち当寺これなり。」

これに続く括弧書きに、「江戸名所記」の上記の説明を引用しているが、これは付会(こじつけ)の説で、下谷幡随意院の妙竜水の事跡と混同している、としている。

「極楽水(境内、本堂の前にある井を云ふ。上に屋根を覆ふ。吉水(よしみず)と号くるものこれなり。この辺をすべて極楽水と唱ふるは、この井に依つて名とすといへり。或人云ふ、極楽水は松平播磨候の藩中にあり。旧(むかし)は石川山善仁寺の境内なりと云ふ。)」

極楽の井は、吉水といい、後に松平播磨守の上屋敷内に入ったという。宗慶寺・極楽水の挿絵ものっているが、本堂の手前に屋根のある極楽水の井戸が描かれている。通行人のいる門前の道が吹上坂の一部と思われる。本堂の裏側がいまの播磨坂の方であろう。

上記のように、極楽水は、地名になっており、永井荷風もそのように使っている。たとえば、「断腸亭日乗」大正13年「四月二十日。・・・御薬園阪を下り極楽水に出で、金冨町旧宅の門前を過ぐ。・・・」とある。

播磨坂中腹 播磨坂中腹 播磨坂中腹 播磨坂中腹 極楽水跡から播磨坂の歩道にもどり、左折し、坂上に向かう。広い坂であるので、情緒はないが、樹木が植えられた真ん中の散歩道の存在が唯一、味気なさを和らげている。ないよりはずっとましである。

春日通りの信号を渡り散歩道に入る。

上記の説明板にあるように、ここは、戦後にできた道らしい。江戸切絵図を見ると、坂下側は松平播磨守の屋敷で、上側は武家地であった。明治地図、戦前の昭和地図になく、昭和31年の23区地図にある。この坂のあたりは、下側が久堅町、上側は竹早町であった。

坂上側に立っている旧町名案内によれば、竹早町の由来は、旧町名の一つ、簞笥町の「簞」の字を分解して上下に分けて、竹早のよい名とした、昔は竹の多い土地であったから、などの説があるとのこと。

播磨坂上 播磨坂上説明板 坂上から散歩道に入ると、「高橋泥舟(1835~1903) 山岡鉄舟(1836~1888) 旧居跡 小石川五丁目1」の説明板が立っている。次のような説明がある。

「泥舟は槍術の大家山岡静山の弟で、母方の実家である高橋家を継ぎ、25歳のとき幕府講武所の師範となる。鉄舟は剣術を北辰一刀流の千葉道場に通い、槍を静山に習った。鉄舟は旗本小野家の出身であるが、静山の妹英子と結婚し、山岡家を継いだ。
 二人は、文久二年(1862)12月、清河八郎の呼びかけで、近藤勇らが参加し結成された浪士隊の取締役を幕府から命ぜられ、上洛するが、清河の攘夷尊王の策謀が発覚し、江戸に帰府した。
 慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れ、官軍が江戸に迫ると、泥舟は前年に大政奉還した元十五代将軍徳川慶喜に恭順を説き、身辺警護に当たった。鉄舟は勝海舟の使者として、駿府の官軍参謀の西郷隆盛に会い、江戸城無血開城への道を開いた。
 海舟、泥舟、鉄舟を維新の三舟と呼び、維新の重要な役割を担った。」

右の写真は、説明板にのっている地図で、尾張屋板江戸切絵図にある高橋家、山岡家が示されている。狭い屋敷であり、裕福ではなかったようである。これは勝海舟なども同じであった。

播磨坂上 播磨坂上 播磨坂上側 坂上の横断歩道にもどり、散歩道から西側の歩道に出る。上の右写真の地図にあるように、石川啄木終焉の地へ行くために坂を下る。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「江戸名所図会(四)」(角川文庫)

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