東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

三百坂

2011年03月22日 | 坂道

三百坂上 三百坂上 三百坂中腹 三百坂中腹 真珠院前の坂を下り、次の四差路を左折し、次を左折すると、三百坂の坂下である。道になりに進み坂上まで行く。坂上がちょうど竹早高校の北門である。ここから引き返すが、緩やかに北へまっすぐに下っており、かなり長い。下側でちょっと勾配があり、坂下で右に曲がりふたたびまっすぐに下っている。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、伝通院の西側に、三百サカ、があり、まっすぐに下り、坂下で、いまのように右に曲がっている。近江屋板にも、△三百サカとある。

江戸から続く坂としてはやや平凡であるが、坂下側に石垣があり、曲がりの付近に風情がわずかに残っている。

三百坂下 三百坂下 三百坂下 坂の途中、石垣の前に少々古くなった説明板が立っており、次の説明がある。

「三百坂(三貊坂)
 『江戸志』によると、松平播磨守の屋敷から少し離れた所にある坂である。松平家では、新しく召抱えた「徒(かち)の者」を屋敷のしきたりで、早く、しかも正確に、役立つ者かどうかをためすのにこの坂を利用したという。 主君が登城のとき、玄関で目見えさせ、後衣服を改め、この坂で供の列に加わらせた。もし坂を過ぎるまでに追いつけなかったときは、遅刻の罰金として三百文を出させた。このことから、家人たちは「三貊(さんみゃく)坂」を「三百坂」と唱え、世人もこの坂名を通称とするようになった。
      文京区教育委員会  昭和55年1月」

横関は、『砂子の残月』という本にある、この坂のそばに百々百右エ門の屋敷があったので三百坂と呼んだという説を紹介し、三貊坂という別名については、安政ころの、作者不詳の『戯作者小伝』の「恋川好町」の小伝の中に、「小石川三貊坂極楽水上光円寺に葬る、・・・」とあるという。 

三百坂下 三百坂下を左折した道 江戸切絵図には、坂下を左折してまっすぐに延びる道に、三百サカ下トヲリ、とある。右の写真は坂下を左折してからこの道を撮ったもので、まっすぐに西へ延びている。左側は学校の運動場、右側は住宅街で、静かな一帯である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)

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