東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

喰違見附~紀尾井坂

2010年09月21日 | 坂道

紀伊国坂の坂上は迎賓館につながるが、その手前の信号を渡り、東に向かう。ここは、右に弁慶濠が見え、左がテニスコートなどであるが、窪んでいるので、もとは濠であったのであろう。

ここが喰違見附である。説明板が立っているが、右の写真は説明板を後ろにして撮った喰違見附の跡である。

その説明によれば、喰違見附とは、江戸初期の慶長17年(1612)に甲州流兵学者の小幡景憲によって縄張りされたと伝えられる、江戸城外郭門の一つで、土塁を前後に延ばして直進を阻むという戦国期以来の古い形態の虎口(城の出入口)構造とのこと。通常の江戸城の城門は枡形門という石垣を巡らしたものだそうである。

喰違見附は、門と石垣を使わず、土塁を互い違いに築いて敵の直進を阻むようにしたもので、見張りの番所をおいたところらしい。ここは、江戸城外濠の中ではもっとも高い地形であるという。

喰違見附の跡を直進し、右折すると、紀尾井坂の坂上である。かなりの勾配でまっすぐに下っている。

左の写真は坂中腹から坂上側を撮ったものである。写真左の標柱には次の説明がある。

「この坂を紀尾井坂といいます。『新撰東京名所図会』には「喰違より。清水谷公園の方へ。下る坂を稱ふ。」また「紀尾井坂は紀伊家、尾張家、井伊家の三邸此所に鼎立し在りしを以て名つく」とかかれています。このあたりが紀尾井坂と呼ばれているのも左記の理由からです。また坂下が清水谷なので清水谷坂の別の名もあったといいます。」

江戸切絵図を見ると、喰違から入って紀尾井坂の坂上の右側に井伊掃部頭、左側に尾張殿、坂下右側に紀伊殿、とある。これらの屋敷の頭文字に由来する坂名である。

石川、岡崎は、別名、(清水谷坂ではなく)清水坂としている。

横関によると、清水坂は、別の坂で、紀尾井町と麹町五丁目境の坂路、すなわち、清水谷から、上智大学の東側の坂を、新宿通りへ出る道筋をいうとしている。

右の写真は紀尾井坂下から坂上を撮ったものであるが、その清水坂は、写真右を進んだところと思われる。今回は行けなかったが。

江戸切絵図には、その坂に相当するところに、シミヅダニ、とある。
(続く)

参考文献
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
横関英一「続 江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)

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